※劇場名の赤色表記は、この年に開館(改称)したことが分かっている映画館
※劇場名のオレンジ表記は、開館年が不明だがこの頃にはあったと思われる映画館
☆前身『本部劇場』
☆改称『本部琉映館』←『本部劇場』:1959〜1963年
★閉館:1960年代後半('66年6月30日興行確認)
◎場所:本部町渡久地MAP
◎経営主:真喜屋実光
『本部劇場』が改称した映画館だが、改称した時期が漠然としている。
'56年の旧正月の時期に撮られた写真(参照:『本部劇場』の項目に掲載)では琉映貿のマーク(REB)が建物の正面に大きく掲げられていることから、この頃から『本部琉映館』を名乗ったとも考えられるが、新聞では'59年正月まで『本部劇場』の名称で広告や記事に掲載されている。
国頭映劇(国頭国映):時期不明 写真提供/山里将人☆前身『半地劇場』
☆新築開館:1960年3月27日
☆別称『国頭国映』
★閉館:1969年
◎場所:国頭村辺土名MAP
◎経営主:国場れい子
『半地劇場』の経営者が『半地劇場』を閉館させて辺土名に開館させた国映系の映画館。
『国頭映劇』が正しい劇場名だと思われるが、地元では『国頭国映』と呼ばれたりもする。
劇場があった場所は現在「国頭村立診療所」になっている。
金武琉映館:1960年頃? 写真提供/奥間裕次☆開館:1960年8月3日
★閉館:1973年初頭頃
◎場所:金武町(当時・金武村)MAP
◎客席:約200席(1階・2階席合わせて)
◎経営主:奥間敏行
現・琉球銀行金武支店の場所にあった個人経営の映画館。
戦後、コザで設計事務所を営んでいた奥間敏行氏が『胡屋琉映館』の設計を手がけた際、琉映貿の重役の宜保俊夫氏から金武で琉映館を経営しないかと誘われてこの映画館を開館するに至った。
金武琉映館が建てられる前:撮影時期不明 提供/奥間裕次
開館した頃の近隣一帯は電気のインフラ整備が行き届いてなかったため、劇場に自家発電設備を導入した。客層の中心はハンセン基地建設の労働者だったそうだ。
閉館後、海洋博関連事業を手がけていた某照明器具会社に倉庫として貸したが、'76年12月24日に原因不明の火事で焼失。この火事の模様を目撃した経営主の奥間夫人やご子息の話によると、倉庫にあった大量の照明器具に引火したために、花火のような美しい光景が繰り広げられ、野次馬が喜んで拍手も湧いたそうである。金武琉映館跡地に建った琉球銀行:2012年5月 撮影/平良竜次
☆開館:1960年〜1961年頃
☆改称『名護琉映館(↓下記の項目)』←『名護第二東映』:1963年7月以前
◎場所:名護市城(当時・名護町)MAP
火事で移転した『北部沖映館』の跡地に開館した映画館。
短命だった「第二東映」の名称を使用しているので、'60年〜'61年頃に開館したと思われる(※参照:『嘉手納第二東映』の項目)。
名護琉映館:撮影時期不明 写真提供/山里将人☆改称『名護琉映館』←『名護第二東映(↑上記の項目)』
:1963年7月以前
☆暫定的『名護第二東映』:1963年後半〜1964年前半
★閉館:1983年9月
◎場所:名護市城(当時・名護町)MAP
◎経営主:屋嘉比康幸
◎収容人数:約500人(2階席は畳)
琉映系作品(東映、日活など)の名護の二番館。一番館は『名護映画劇場』。
「琉球新報」の'63年8月1日号の上映情報欄「きょうの映画」に登場しているが、それよりもっと前からあった可能性が高い。
'63年後半頃から'64年前半頃までの資料に『名護第二東映』として名前が登場したりするが、以前の呼び名がそのまま使われているだけだと思われる。
'64年に映写技師として入社にし、まもなく館長も兼任するようになった又吉良全氏の話によると、細い道を挟んで向かい合うように『名護国映館』が営業していたので、宣伝合戦でお互いに賑わっていたようである。ただし、仲が悪かったわけでもなく、従業員同士の交流会も度々行われたそうだ。
この劇場が閉館して2年後の'85年、又吉氏は『名護シアター』を開館させる。
☆開館:1963年11月以前
★閉館:1965年?
◎場所:名護市辺野古(当時・久志村辺野古)MAP
◎経営主:宮城安範
名護市辺野古にあった劇場。邦画は琉映系、洋画は国映系の映画を上映していたようである。
☆前身『辺土名劇場』
☆改称『辺土名琉映館』←『辺土名劇場』:1964年
★閉館:1969年
◎場所:国頭村辺土名MAP
◎経営主:大城徳盛
『辺土名劇場』から改称した琉映貿系の映画館。現「国頭村教育委員会」の建物辺りにあったそうだ。
国映系の『国頭映劇』と共に国頭村の人々に映画を提供し続けた。閉館した時期も『国頭映劇』と同じ '69年である。