『沖縄映画興行伝説』 沖縄離島・先島にあった映画館 PAGE:1('46〜'49)

沖縄離島・先島にあった映画館   PAGE:1(1945年〜1949年)

  ※劇場名の赤色表記は、この年に開館(改称)したことが分かっている映画館
  ※劇場名のオレンジ表記は、開館年が不明だがこの頃にはあったと思われる映画館

1945〜1946年

宮古島:太平劇場

☆開館:1946年7月
★閉館:1957年以降('56年12月に公演が行われている)
◎場所:宮古島市(当時・平良市「大見謝支店南隣」)LinkIconMAP
◎収容人数:900人
◎経営者:糸数一郎(互映商会)


露天なのか有蓋なのかは不明だが、戦後間もない頃なので露天の劇場であろう。
いずれにせよ、現在、我々が把握できている沖縄映画興行史では、沖縄で戦後最初に誕生した劇場になる。
この貴重な情報を提供して下さった『沖縄劇映画大全』の著者である世良利和氏の取材報告によると、情報源は「宮古民友新聞」と「みやこ新報」とのこと。その記事には「大見謝支店南隣」に開館したらしいが、その場所がどこを指すのか不明である。しかし、「平良市史 第一巻 通史編Ⅱ 戦後編」('81年・平良市役所)には、<現在、重信時計店>と書いてあり、そこから推測すると現「重信ビル」の辺りにあったと思われる。同じく「平良市史 第一巻 通史編Ⅱ 戦後編」には、'46年3月20日に「平和建設人民大会」がこの劇場で開かれているが、'46年7月に開館したという情報が正しいとなると、その4ヶ月前に行われた集会は、劇場が仮設だった時期なのだろうか。当時の宮古を知る方からの情報提供を求む。

宮古島はかつて「太平山」と呼ばれていたらしいが、劇場名はそこから由来しているかもしれない。

宮古島:名称不明

☆開館:1946年?
◎場所:宮古島市


『沖縄劇映画大全』の著者・世良利和氏の調査によると、「宮古民友新聞」の'46年9月29日号に<下里市場通りの元久場川商店跡に映画館建設の計画>という記事があったそうだが、劇場名が分からず。実際に計画通りに開館したかも不明である。

奄美大島:名称不明(常設映画館)

☆開館:1946年9月23日
★閉館:不明
◎場所:奄美市(当時・殖産会社跡地)


書籍「全記録 分離期・軍政下時代の奄美復帰運動、文化運動」('03年・間弘志著・南方新社)によると、'46年7月31日に米軍政府のクレア長官から映画の輸入許可が下り、殖産会社跡地で「常設映画館」が正式にオープンしたらしいが('46年9月23日に試写会、その翌日から正式公開)、劇場名が不明である。
戦後間もない混乱の時期、劇場名はさほど重要ではなかったようだ。
同書籍によると、'46年10月25日に『東京五人男』('45年・東宝)が上映されている。

ちなみに沖縄本島で米軍政府の映画興行の認可が下りたのは'47年4月で、民間による貿易(映画輸入等)が許されたのは'50年10月である(正式ルートで輸入映画上映が始まったのは'51年2月)。

※奄美諸島は戦後しばらく米軍統治下にあったが、1953年12月25日に日本復帰している。

1947〜1949年

石垣島:千歳館

☆開館:1947年7月14日
☆改称『八重山沖映館』←『千歳館』:1952年7月以前
◎場所:石垣市石垣
◎経営主:山城興常


戦前、石垣にあった演劇場『千歳座』が第二次大戦中の空爆で破壊され、戦後に瓦葺二階建ての映画館『千歳館』として復活。開館してしばらくは戦前に台北で上映されていた日本映画のフィルムを闇ルートで入手して上映したらしい。
オーナーは山城興常氏は '53年に『万世館』を開館させているが、『千歳館』と『万世館』の関連性や劇場名の変遷等が資料によって矛盾する点がいくつかあり、謎の部分が多い。

※参照:LinkIconコラム3:千歳館と万世館の謎

奄美大島:朝日館

☆開館:1947年10月14日
★閉館:1954年以降(’53年末までの興行記録確認)
◎場所:奄美市名瀬朝日町(当時・名瀬市朝日区朝日町四班)
◎経営主:吉津進


当初は演劇中心の劇場だったようだが、すぐに映画の上映を始めている。のちに琉映貿系の映画館になったようだ。

書籍「全記録 分離期・軍政下時代の奄美復帰運動、文化運動」('03年・間弘志著・南方新社)の「記録《Ⅱ 朝日館》」の項目に載った年表を見ると、建物の落成(10月14日)より9ヶ月前の1月5日から映画の上映が数回行われているように読みとれるが、建設中の間は野外上映を行っていたということなのか、それとも全く別の場所の上映記録を載せているのか、不明である。
同書には開館後から'53年まで上映された作品のリストが載っており、『アンヤタサ!』('01年・山里将人著・ニライ社)に掲載されている'48〜'52年に沖縄で上映された作品リストと見比べると、'51年2月中頃までは奄美が沖縄本島より数週間ほど先に映画が公開され、それ以降は逆に沖縄本島の方が1ヶ月ほど早く映画が公開されている。

※奄美諸島は戦後しばらく米軍統治下にあったが、1953年12月25日に日本復帰している。

奄美大島:中央会館

☆開館:1947年12月頃('47年11月棟上げ)
☆改称『大島沖映館』←『中央会館』:1952年7月頃
◎場所:奄美市名瀬末広町(当時・名瀬市)LinkIconMAP
◎経営主:西平守俊


演劇中心の劇場として開館したようで、映画の連続上映が始まるのは'49年9月からである。

書籍「全記録 分離期・軍政下時代の奄美復帰運動、文化運動」('03年・間弘志著・南方新社)に載っているこの劇場の上映記録は、'52年6月3日に『炎の肌』('51年大映・出演:三條美紀、宇佐美淳)まで。「琉球新報」の'52年7月25日号に載った沖映チェーン館の広告に、<大島沖映(旧館名:中央会館)>として登場していることから、'52年7月頃に沖映のチェーン館として改称したと思われる。

※奄美諸島は戦後しばらく米軍統治下にあったが、1953年12月25日に日本復帰している。

奄美大島:文化劇場(文化会館?)

☆開館:1948年1月以前
☆改称?『文化会館』←『文化劇場』:1951年
◎場所:奄美市


書籍「全記録 分離期・軍政下時代の奄美復帰運動、文化運動」('03年・間弘志著・南方新社)によると、'48年1月に『文化劇場』で少なくとも3度は映画上映が行われているようだ。
'51年から『文化会館』という劇場が登場するが、この劇場が改称したのか、それとも別の劇場なのかは不明。

※奄美諸島は戦後しばらく米軍統治下にあったが、1953年12月25日に日本復帰している。

宮古島:南座

☆開館:1948年3月以前
★閉館:不明
◎場所:宮古島市


'48年4月10日に料理屋組合の芝居がこの劇場で行われたらしいが、不明な点が多い。