『沖縄映画興行伝説』 沖縄北部にあった映画館 PAGE:3('52〜'53)

沖縄北部にあった映画館   PAGE:3(1952年〜1953年)

  ※劇場名の赤色表記は、この年に開館(改称)したことが分かっている映画館
  ※劇場名のオレンジ表記は、開館年が不明だがこの頃にはあったと思われる映画館

名護市:大丸映画劇場 ←文化劇場

☆前身『文化劇場』
☆改装・改称『大丸映画劇場』←『文化劇場』:1952年7月19日(土)
☆別称(一時的)『名護オリオン座』:1953年1月〜1954年1月
☆改称『名護国映館』←『大丸映画劇場』:1957〜1959年
◎場所:名護市(当時・名護町)LinkIconMAP
◎経営主:大城孫吉〜大城吉正


『文化劇場』の経営権が大城孫吉氏に移り、新たに舞台・上映設備を整えて『大丸映画劇場』として新装開館。
'53〜'54年は『名護オリオン座』としてオリオンチェーン館の新聞広告に掲載されているが、広告に載せる際の一時的な呼び名と思われる(※『首里オリオン座』『小禄オリオン座』の項目参照)

'50年代後半になると国映系列になり、『名護国映館』に改称。

ちなみに、「名護 ひとびとの100年(名護市史別巻1)」('90年・名護市役所)に '56年頃に撮られたと思われる当劇場の写真が掲載されている(キャプションには「大丸映画館」とあり)。

名護市:北部沖映 ←南宝館

☆前身『南宝館』
☆改称『北部沖映館』←『南宝館』:1952年
☆別称『名護沖映館』
★閉館:1966〜1968年頃
◎場所:名護市(当時・名護町城区)LinkIconMAP 火事で移転→LinkIconMAP
◎経営主:外間幸得〜金城秀吉


『南宝館』が沖映系列の映画専門館になり、『北部沖映館』として再スタート。
「名護沖映館」と呼ばれることもある。

'64年から閉館('83年)まで『名護琉映館』に勤めていた又吉良全氏の証言によると、『北部沖映』は一度火事になって近所に移転し(2013年現在の「アポロ美容室」辺り)、元の場所には『名護第二東映』が出来たそうだ。火事になった時期は不明だが、『名護第二東映』が '60〜'61年頃に開館しているので、その以前の '50年代末だと思われる。

閉館後、映画館があった建物は、'68年11月に「名護さくら会館」になったという情報を得たが、'70年の地図で調べると「アポロ会館」になっている。

本部町:本部沖映館 ←新世界

MotobuOkiei(60_06~07)net.jpg本部沖映館:1960年6月頃 写真提供/山里将人☆前身『新世界』
☆改称『本部沖映館』←『新世界』:1952年
★閉館:1965年後半('65年9月5日興行確認)
◎場所:本部町渡久地LinkIconMAP
◎経営者:仲村幸昌、神元繁弘〜金城英信


本部町渡久地の『新世界』が '52年に『本部沖映館』に改称。
建物は現在も残っており、小さな映画館であったことが分かる。

金武町:金武文化劇場

☆開館:1953年3月以前
★閉館:1965年頃
◎場所:金武町(当時・金武村)LinkIconMAP
◎経営主:仲田良雄


この劇場で『ひめゆりの塔』を見たという地元の女性の証言がある。'41年生まれの彼女が小学校5〜6年の頃の修学旅行の帰りに見たそうだ。
『ひめゆりの塔』の沖縄の地方興行については、'53年1月から3月にかけて行われる広告の資料が残っており、そのスケジュール内に「金武文化劇場」の名はないが、彼女の証言とその資料とを照らし合わせて推すると、彼女は '53年3月にこの劇場で『ひめゆりの塔』を見た可能性が高い。その日、彼女は入場料金が工面できなかったため、家から持ってきた米一枡を入場料金代わりにして映画を見たそうだ。米とはいえ、当時の沖縄では貴重な作物。稲作が盛んであった金武らしいエピソードである。

最終的には沖映系や国映系の映画を上映していたが、当初は琉映系の映画も上映していたようだ。