『沖縄映画興行伝説』 沖縄北部にあった映画館 PAGE:2(’50〜'51)

沖縄北部にあった映画館   PAGE:2(1950年〜1951年)

  ※劇場名の赤色表記は、この年に開館(改称)したことが分かっている映画館
  ※劇場名のオレンジ表記は、開館年が不明だがこの頃にはあったと思われる映画館

本部町:新世界

☆開館:1951年3月以前
☆改称『本部沖映』←『新世界』:1952年
◎場所:本部町渡久地
◎経営者:神元繁弘、玉城盛昌


本部町渡久地にあった沖映系の映画を上映していた劇場。「うるま新報」の'51年3月24日号に『消防決死隊』('51年大映・主演:小林桂樹)の上映広告が載っていることから、その時期にはすでに存在していたことが分かる。

のちに『本部沖映』に改称。

国頭村:辺土名劇場 ←国頭劇場

☆前身『国頭劇場』
☆移転・改称『辺土名劇場』←『国頭劇場』:1951年5月5日
☆倒壊(台風フェイ):1957年9月26日
☆移転(有蓋):1958年3月20日
☆改称『辺土名琉映館』←『辺土名劇場』:1964年
◎場所:国頭村辺土名LinkIconMAP→<移転・有蓋>LinkIconMAP
◎経営者:知花新光、大城徳盛、宮城吉郎〜大城徳盛


『国頭劇場』が「馬追い通り」に移転して『辺土名劇場』に改称(現在の「ひかり医院」辺り)。
地元の取材ではこの時期に有蓋になったという証言があったが、「辺土名誌 下巻」(2007年・国頭村字辺土名公民館発行)によると、『辺土名劇場』が有蓋になったのはさらに移転(現「国頭村役場」辺り)したときの '58年らしい。

'57年9月26日、台風フェイの襲来で建物が倒壊している。その約半年後に移転しているので、それはこの台風による倒壊がきっかけであろう。

名護市:名護映画劇場 ←名護劇場

☆前身『名護劇場』
☆改称『名護映画劇場』←『名護劇場』:1951年
★閉館:1966年7月〜1969年
◎場所:名護市(当時・名護町)LinkIconMAP
◎経営主:湖城基仁(其仁?)


琉映系作品(東映、日活など)の名護の第一封切館。
「琉球新報」の'52年正月号に『名護映画劇場』の名称で広告を掲載。1年前は『名護劇場』の名で新聞に広告を載せていたので、'51年に改称したことが分かる。

「琉球新報」の'66年6月30日号の上映情報欄「きょうの映画」に載ったのを最後に、その後の新聞にはこの劇場名が発見できてない。'70年12月に発行された「名護市の今昔」(沖縄文教出版)には、「名護市には映画館が2館しかない」と書かれており、当時('70年)は『名護国映館』『名護琉映館』の2館が現役であったことは分かっているので、『名護映画劇場』はすでに閉館していたと思われる。

ちなみに「名護 ひとびとの100年(名護市史別巻1)」('90年・名護市役所)にこの劇場の写真が掲載されており、キャプションには「1956年正月」とあるが、写っている垂れ幕から、'56年の旧正月(2月12日)に撮影されたものと思われる。

名護市:南宝館

☆開館:1951年末以前
☆改称『北部沖映館』←『南宝館』:1952年
◎場所:名護市(当時・名護町城区一班)
◎経営主:外間朝和


「琉球新報」の'52年正月号に広告が掲載されている。演劇中心の劇場だったが、のちに映画専門館になり、『北部沖映館』に改称。

名護市:文化劇場

☆開館:1951年末以前
☆改装・改称『大丸映画劇場』←『文化劇場』:1952年7月19日
◎場所:名護市(当時・名護町城区一班)
◎経営主:小橋川初雄


「琉球新報」の'52年正月号に広告が掲載されている。映画と演劇の兼用劇場だったようだ。
'85年〜'05年に北部唯一の映画館として『名護シアター』を経営していた又吉良全氏の証言によると、戦前に『大丸劇場』という映画館があったという話を聞いたことがあるらしいが、その情報が正しいかどうか、また、それがこの劇場と関係があるかどうかも不明。