※劇場名の赤色表記は、この年に開館(改称)したことが分かっている映画館
※劇場名のオレンジ表記は、開館年が不明だがこの頃にはあったと思われる映画館
1954年〜1955年
西原劇場:1960年6月頃 写真提供/山里将人☆前身『西原兼久劇場』
☆移転・改称
『西原劇場』←『西原兼久劇場』:1954年3月以前
★閉館:1965年頃('65年1月28日興行確認)
◎場所:西原町与那城(当時・西原村)MAP
◎経営主:宮平雅市
兼久にあった『西原兼久劇場』が与那城に移転し、『西原劇場』として開館。琉映貿系列の邦画をよく上映していた。
'65年の途中から新聞の映画情報に登場しなくなるので、その頃に閉館したと思われる。
現在その地に建っている建物には、映画館だった頃の名残がある。
「沖縄県公文書館」所蔵の写真に『西原劇場』が小さく写ったものがある(「沖縄県公文書館」所蔵の写真)。この写真の奥に写っている四角い建物が『西原劇場』だ(建物の壁に「西原劇場」のサイン有り)。'60年6月頃に撮られた掲載写真(右上)と見比べると形状が違って見えるが、後から建物の前方に増築したと思われる。
ちなみに公文書館所蔵の写真左側に写っている「西原写真館」の手前には、なぜか「西原劇場」と書かれた袋が3つ置かれている。フィルム巻を包む袋に形状が非常にそっくりだが、そうだとしたら、なぜ劇場前に置かずに数十メートル離れた「西原写真館」前に置かれているのだろうか…不思議である。
☆開館:1954年3月以前
★閉館:1965年(1965年1月存興行認)
◎場所:うるま市勝連平安名(当時・勝連村平安名)MAP
◎経営主:太田俊夫
新聞には『与勝琉映館』と表記されることが多いが、'63年の名刺交換会を元に作成された「琉球人名年鑑 1964年版」によると、「第一与勝琉映館」として記載されている。この名称が正しいのか、あるいはあとから改名したのか、不明である。
中部琉映館:1957年1〜2月 写真提供/山里将人☆開館:1954年3月12日以前
☆移転・改称『中之町琉映館』←『中部琉映館』:1961年
◎場所:沖縄市上地(当時・越来村新開放地)MAP
◎経営主:桑江朝幸
中の町にあった琉映系の映画館。「琉球新報」'54年3月13日号に掲載された琉映貿の広告に初登場する。
この一帯は戦後しばらく米軍使用地で、その土地が開放されたあとの'53年6月に「中の町」は誕生。その地域名が定着した頃の'60年代初頭に『中之町琉映館(中の町琉映館)』に改称している。
経営主の桑江朝幸氏は『ゴヤ琉映館』も経営しており、のちに沖縄市長になっている。
☆開館:1954年3月〜7月
★閉館:1970年代
◎場所:うるま市安慶名(当時・具志川村)MAP
◎経営主:與那覇盛吉
「琉球新報」'54年3月13日号に掲載された琉映貿の広告に初登場するが、そこには「新築中」とある。8月には興行を行っていることが分かっているので、この年の3〜7月に開館したことが分かる。
☆前身『コザオリオン座』
☆改称『キャピトル館』←『胡差オリオン座』:1954年9月1日
☆改称『キャピトル国映館』←『キャピトル館』:1958年頃
◎場所:沖縄市中央(当時・越来村センター通り)MAP
◎経営者:田里友義、田里友一、普久原朝基
『コザオリオン座』が国映系列になり、'54年9月に『キャピトル館』として新たに誕生。
'58〜'59年頃には『キャピトル国映館』と名乗るようになる。
諸見劇場:1955年頃 写真提供/沖縄市役所総務課市史編集担当☆開館:1954年11月30日
☆改称『コザ国映館』←『諸見劇場』:1956年頃
◎場所:沖縄市諸見里(当時・越来村諸見大通り)MAP
◎経営者:松本重盛、仲宗根朝吉、青木嘉正、島袋セイキ、
島袋亀助、仲宗根ゼンコウ
諸見大通りに '54年11月30日に開館した映画館。こけら落としは『西部の無法男(西部の無法者)』(セントラル配給 東京公開:'51年5月)と『裸の島』(英国映画 東京公開:'54年5月)の上映。
'56年頃に『コザ国映館』へ改称。
※情報協力:沖縄市役所総務課市史編集担当
◎開館:1954年
◎改称『十字路国映館』←『十字路劇場』:1958年4月24日
◎場所:沖縄市城前町MAP
コザ十字路近くに誕生した芝居専門の劇場。4年後に映画常設館の『十字路国映館』になる。
※情報協力:沖縄市役所総務課市史編集担当
グランドパレス:1955年12月25日 写真提供:仲村高志☆開館:1955年12月25日
★閉館:1986年3月
◎場所:宜野湾市普天間(当時・宜野湾村)MAP
◎経営主:古波蔵信雄〜比嘉定裕
普天間三差路近くに開館したオリオン系列の映画館。
'59年2月、沖縄で初めてのクセノン・ランプを使用した最新映写機によるお披露目試写会を行っている。
閉館後は「ベスト電器」になったがその店舗も閉店。現在はアンティーク家具販売店になっている。
1956年〜1957年
普天間・スカラ座:1960年夏 写真提供/山里将人☆前身『普天間オリオン座』
☆改称『スカラ座』←『普天間オリオン座』:1956年以前
★閉館:1964年頃
◎場所:宜野湾市普天間(当時・宜野湾村普天間)MAP
◎経営主:古波蔵信雄
普天間の本町通りにあったオリオン系の映画館。
のちに国映系の映画を上映するようになり、「スカラ座国映」と呼ばれることもあったようだ。
経営主は『グランドパレス』(↑上の項目)も経営していた古波蔵信雄氏。
'60年夏に撮られた『スカラ座』の写真(右上掲載)を見ると、この劇場があった場所から100mしか離れてない場所に現存する『普天間沖映館』の建物と、そのデザインや小高いところに立地している状況がそっくりな点が興味深い。
嘉手納国映館 跡:2010年2月 撮影/平良竜次☆開館:1956年
☆改装工事:1982年10月22日〜1983年4月
☆新装開館:1983年4月6日
★閉館:1987年6月
◎場所:嘉手納町嘉手納(当時・嘉手納村4区1班)MAP
◎経営主:古堅裕亮〜古堅祐明〜古堅裕勝
'57年に沖縄興信所が発行した「最近の琉球 沖縄写真案内」に開館したばかりの『嘉手納国映館』の写真が掲載されており、「琉球新報」'56年の正月に掲載された国場組映画部の広告にこの劇場の名が載ってないので(『嘉手納劇場』の名はある)、'56年に開館したことが分かる。
'83年に新装された状態で建物が現存(2010年3月現在) 。階段を上る途中の右手の壁面に、うっすらと「名画座」の文字が残っている。
地元の人の話によると、'83年の新装開館した頃から、急激に客足が遠のいていったそうだ(ただし、新装開館直後の4月14日〜4月22日に上映された『E.T』は大盛況)。
嘉手納国映館だった建物に残っている「名画座」の文字:2010年2月 撮影/當間早志
「Picasa ウェブアルバム」のdoelze43さんのページに、'64〜'65年頃に撮られた『嘉手納国映館』のカラー写真がUPされている。沖縄に駐在していた米軍関係者のプライベート写真らしいが、ポジフィルムで撮られたのか、そのページでは間違って左右反転した状態でUPされている(↓画像をクリックしたら掲載ページが開きます)。
嘉手納国映館:1964〜1965年頃。「Picasaウェブアルバム」のdoelze43さんのアルバムより
コザ国映館:1960年7月28日〜8月5日 写真提供/山里将人☆前身『諸見劇場』
☆改装・改称『コザ国映館』←『諸見劇場』:1956年末以前
★閉館:1963〜1964年
◎場所:沖縄市諸見里(当時・コザ市諸見大通り)MAP
◎経営主:青木嘉真
諸見大通りにあった『諸見劇場』が『コザ国映館』へ改称。
'63〜'64年頃に閉館している。
映画館の建物は無くなっているが、掲載写真に写っている右側のコンクリート瓦の家は当時の面影を残したまま現存する。
安ゲ名国映館:1960年夏 写真提供/山里将人☆前身?『安慶名オリオン座』
☆改称?
『安ゲ名国映館』←『安慶名オリオン座』:1956年末以前
★閉館:1960年代後半(1966年6月30日興行確認)
◎場所:うるま市安慶名(当時・具志川村安慶名)MAP
◎経営主:古賀正範
経営主は『安慶名オリオン座』と同じ古賀正範氏。『安ゲ名国映館』が登場した時期には『安慶名オリオン座』の存在が確認できない。おそらく、この劇場に映画を提供している配給会社がオリオン興行から国映に移り、『安慶名オリオン座』から『安ゲ名国映館』へ改称したと思われる。
『名護琉映館』で館長兼映写技師を務めていた又吉良全氏は、映写技師の免許を取得して最初に正式採用された映画館がここで、 '61年から1〜2年ほど務めたそうだが、近くの米軍の通信基地の電波の影響で上映中の作品の音声にノイズが入ることが度々あり、その対処に嫌気がさしてこの映画館を辞めたそうである。
☆開館:1957年10月15日
★閉館:不明(1960年1月興行確認)
◎場所:うるま市平良川(当時・具志川村)
'57年10月15日に開館したことは分かっているが、それ以外は不明な点が多い。
1958年〜1959年
十字路国映館:1960年夏 写真提供/山里将人☆前身『十字路劇場』
☆改装・改称『十字路国映館』←『十字路劇場』
:1958年4月24日(木)
★閉館:1987年5月
◎場所:沖縄市城前町(当時・コザ市)MAP
◎経営主:仲里徳雄
コザ十字路近くにあった映画館で、国映系第2封切館として開館している。こけら落としの上映作品は『愛情の都』('58年東宝・出演:宝田明、司葉子)と『社長三代記』('58年東宝・出演:森繁久彌)。
開館当日の「琉球新報」に掲載された記事には「一時、興行界に問題を投げていたコザ市照屋十字路の十字路劇場」が映画常設館に改造して『十字路国映館』として開館するといった内容の文章が書かれてあるが、その「一時、興行界に投げた問題」というのが、どういう意味を表しているのか不明である。
閉館後、その建物にはパン屋や喫茶店などが入居していたらしいだが、2007年に取り壊されしまって至極残念である。
※情報協力:沖縄市役所総務課市史編集担当
キャピトル国映館:1960年前後 写真提供/沖縄市役所総務課市史編集担当☆前身『キャピトル館』
☆改称
『キャピトル国映館』←『キャピトル館』:1958年5月
★閉館:1964年
◎場所:沖縄市中央(当時・コザ市BCストリート)MAP
◎経営主:田里友義
現・中央パークアベニューにあった映画館。
「琉球新報」の「中部映画案内」で、'58年5月18日(日)まで「キャピトル館」と表記されていたが、5月20日(火)から「キャピトル国映」となっている。
'60年頃に撮られたと思われるこの映画館の写真(右)を見ると、「Capitol Kokuei-Kan」という表記の電飾サインが掲げられており、上映中の洋画の看板も英字のみしか表記されてないものがある。米兵の客が多かった当時のBCストリートならではの特徴であろう。
※情報協力:沖縄市役所総務課市史編集担当
☆前身『園見劇場』
☆改装・改称『園見映画劇場』←『園見劇場』:1958年8月26日
☆改称『園見国映館』←『園見映画劇場』:1959年
◎場所:沖縄市園田(当時・コザ市胡屋)MAP
◎経営主:照屋寛秀
現在の沖縄市の山根ビルにあった国映系列の映画館。『園見劇場』を改装して開館した。
'59年に『園見国映館』へ改称している。
ゴヤオリオン座:1960年? 写真提供/山里将人☆開館:1958年12月
☆改装:1983年12月24日
★閉館:1997年6月22日
◎場所:沖縄市胡屋(当時・コザ市)MAP
◎経営主:津嘉山寛盛〜國場組
沖縄市の胡屋十字路にあった映画館。
十字路沿いに設置された巨大看板は、この場所のシンボルになっていた。
洋画の大作を中心に興行を続けて、沖縄中部の中でもかなり長く続いた映画館だったが、北谷町の『ミハマ7プレックス』の開館に伴い、'97年の6月に閉館。
ゴヤオリオン座 跡(解体中):2011年4月 撮影/平良竜次最後の興行は『明日を夢見て』(監督:ジュゼッペ・トルナトーレ)の特別上映を2日間行い、40年近くの歴史に幕を閉じる。ちなみにその特別上映の入場料金は700円だった。
閉館後はパチンコ屋になったが、それも閉店し、2011年4月に訪れた際は解体工事が始まっていた。残念である。
ゴヤオリオン座 跡(解体中の館内):2011年4月 撮影/平良竜次
※情報協力:沖縄市役所総務課市史編集担当
ピカデリー国映館:1960年 写真提供/山里将人☆開館:1959年1月
★閉館:1986年9月
◎場所:沖縄市上地(当時・コザ市)MAP
◎経営者:松本重盛、仲宗根朝吉
県道330号の諸見大通りの「園田バス停」近くにあった映画館。
『コザ国映館(諸見劇場)』が古くなったということで、同劇場の経営に携わった松本重盛氏、仲宗根朝吉氏らが、同じ諸見大通りにこの映画館を建立した。劇場名は地元で募集し、イギリスで栄えた街の名に因んで名付けられたそうだ。
この劇場の閉館後にディスコ「ピラミッド」になるが、その「ピラミッド」も閉店。今は、建物もなくなり、駐車場になっている。
※情報協力:沖縄市役所総務課市史編集担当
島袋琉映館:2000年4月 撮影/平良竜次☆開館:1959年2月3日
☆新装開館:1962年12月25日(改装工事:11月6日〜12月24日)
★閉館:2007年8月31日
◎場所:沖縄市山里(当時・コザ市)MAP
◎経営主:伊佐正雄
'59年に国道330号山里交差点に誕生した映画館。この前年に開館した『胡屋オリオン座』や翌年に開館した『コザ琉映館』と共に沖縄市で長い間興行を続けた映画館。
『胡屋琉映館』と同じプログラムを上映することがよくあった。
閉館直前の '07年8月20日(月)には「コザ街歩き映画祭」が入場無料で開催された。
この映画館が閉館した後の沖縄市の映画館は『コザ琉映館』だけとなった。
島袋琉映館(館内):2000年4月 撮影/平良竜次閉館後は建物を有効利用したライブハウス「コザロックシアター」となったが、残念ながらその店も2011年に閉店した。
☆前身『園見映画劇場』
☆改称『園見国映館』←『園見映画劇場』:1959年2月6日
★閉館:1963年後期?(1963年6月興行確認)
◎場所:沖縄市園田(当時・コザ市胡屋)MAP
◎経営主:照屋寛秀
『園見映画劇場』から改称した映画館。「琉球新報」の「中部映画案内」で'59年2月5日までは「園見映画劇場」と表記されていたが、翌日から「園見国映」に変わっている。
「琉球新報」の'63年6月25日に登場したのを最後に、後の資料でこの劇場の名が見あたらない。また、「琉球人名年鑑 1964年度版」の「琉球映画興行協会」の欄にも名前がないことから、1963年後半に閉館した可能性が高い。
☆開館:1959年2月7日
☆新装開館:1965年2月
★閉館:1986年9月
◎場所:沖縄市胡屋(当時・コザ市)MAP
◎経営主:桑江朝幸、桑江朝次
東映系と日活系の新作を中部で上映していたコザ興行社が『中部琉映館(中之町琉映館)』と共に運営していた映画館。'59年2月7日に開館している。一般上映開始は翌日の旧正月元旦で、こけら落としの上映作品は『ひばり捕物帖 自雷也小判』('58年東映)と『太陽をぶち落とせ』('58年日活)の二本立て。
☆開館:1959年6月
★閉館:不明
◎場所:沖縄市諸見里(当時・コザ市)
◎経営主:松本重雄
『ピカデリー国映館』の劇場主・松本重盛氏が、'59年6月に同じ諸見里に開館させた映画館らしいが、当時の諸見大通り一帯には『ピカデリー国映館』、『コザ国映館』、『園見国映館』といった国映系の映画館がある。
同配給系列の映画館がそこまでひしめき合って存在したのは考えがたいので、いずれかの劇場が名称を変えた、もしくは別称だった可能性が高いが、未確認である。
☆前身『北宝館』
☆改称『謝苅琉映館』←『北宝館』:1959年
★閉館:1964年?(1964年存在確認)
◎場所:北谷町吉原謝苅地区(当時・北谷村吉原)
「琉球新報」の'60年正月号の「中部映画案内」に登場。前身にあたる『北宝館』が1959年の初頭まであったことから、'59年に改称したことが分かる。
☆開館:1959年末以前
★閉館:1966年7月以降(1966年6月30日興行確認)
◎場所:うるま市石川(当時・石川市)
「琉球新報」の'60年正月号の「中部映画案内」に登場していることから、'59年末にはすでに開館していたことが分かる。