『沖縄映画興行伝説』 那覇市にあった映画館 PAGE:1('46〜'49)

那覇市にあった映画館   PAGE:1(1945年〜1949年)

  ※劇場名の赤色表記は、この年に開館(改称)したことが分かっている映画館
  ※劇場名のオレンジ表記は、開館年が不明だがこの頃にはあったと思われる映画館

1945〜1948年

中央劇場

Naha_ChuoGekijo(EastSide)net.jpg中央劇場:想像図(東側より) 画/新城喜一 提供/山里将人☆開館(芝居小屋として):1947年3月20日
☆開館(政府の認可を得て開館):1948年4月
☆改装(有蓋・トタン屋根):1950年5月13日(土)
★閉館:不明
◎場所:那覇市開南(現・松尾公園)LinkIconMAP
◎経営主:仲井真元楷


現・松尾公園にあった劇場。山の斜面を利用した円形の露天の劇場で、'47年3月20日に梅劇団(団長・伊良波尹吉)がこけら落とし公演を行っている。
ただしその頃はまだ、米軍政府の正式な認可を受けておらず、Naha_ChuoGekijo(WestSide)net.jpg中央劇場:想像図(西側より) 画/山城三郎 提供/山里将人興行を行っていたのも演劇のみ。
『アーニーパイル国際劇場』開館から3ヶ月ほど後れて、正式に開館し、映画も上映するようになった。

'50年5月13日に有蓋の劇場として(トタン屋根で側面はテント張り)再オープンし、「新築落成特別大公開」として『緑のそよ風』('46年12月東京公開・出演:マーガレット・オブライエン)を3日間上映した。


閉館時期は不明だが、当時の沖縄3大映画配給会社(沖映・琉映・オリオン)がチェーン館と共に広告を掲載した『琉球新報』'53年正月には『中央劇場』の名が無く、それ以降の資料でも今のところ発見できてない。

ちなみに、『アンヤタサ!』('01年・山里将人著・ニライ社)に掲載されている「戦後上映映画リスト」では、『中央劇場』で上映された映画は '52年11月に『紅涙草』を上映したのを最後に記載が無くなっている。

アーニーパイル国際劇場 (※沖縄戦後初の興行認可第一号の映画館)

Naha_KokusaiGekijo(Fumei)net.jpgアーニーパイル国際劇場:開館して間もない頃 写真提供/山里将人☆開館:1948年1月21日(水)
☆改装(有蓋・瓦屋根):1951年3月4日(日)
☆改称『国際琉映館』←『アーニーパイル国際劇場』
   :1955年12月1日(木)
◎場所:那覇市牧志
   (現・那覇市ぶんかテンブス館前)LinkIconMAP
◎経営主:高良一


米国軍政府から正式に認可された沖縄戦後初の常設映画館である。オーナーは戦後に活躍した実業家の高良一氏。
この劇場が建てられた当時の牧志地区は人通りの少ない場所であり、沖縄の繁華街は現在の壺屋から開南神里原通りにかけての一帯であった。この劇場の名が、戦後に那覇の繁華街として発展した「国際通り」の名称の元となっているのは有名な話である。
Naha_KokusaiGekijo(51_03_11~15)net.jpgアーニーパイル国際劇場:1951年3月11〜15日頃 写真提供/山里将人
開館当初は木戸口周辺のみ屋根が付いており、観客席は露天であったという。こけら落としの上映作品は『雷親爺』('35年東宝 出演:徳川夢声、大川平八郎、高峰秀子)と '35年頃に製作された『沖縄ニュース』。
'49年10月頃にテント屋根が設置され、'51年に瓦屋根の有蓋劇場に改装。改装して間もない頃の館内を撮影した写真を沖縄県公文書館が所蔵している(LinkIcon「沖縄県公文書館」所蔵の写真)。

映画常設館ではあるが、演劇やのど自慢大会など、映画以外の催し物がこの劇場で頻繁に行われている。
'48年の12月4日に 『那覇劇場』 で沖縄初のプロボクシングの試合が行われたのをキッカケに、この劇場でもボクシングの試合が開催されるようになり、そのボクシング・ブームは '50年頃まで続いたそうだ。
また、この劇場で行われたストリップショー告知の横断幕が写っている写真( '52年撮影)も存在。
'55年7月2日には、沖縄初の「納涼夜間興行(ナイト・ショー)」を始めている。

'54年12月1日からオリオン興行の直営館となっているが(経営主は高良氏のまま)、1年後の '55年12月1日には琉映貿の直営館になり、『国際琉映館』に名称を変更している。しかし、66年1月26日に撮影された「沖縄県公文書館」所蔵の写真を見ると、建物に掲げられた劇場名は「国際劇場」のままだったようである(LinkIcon「沖縄県公文書館」所蔵の写真)。

※なお、川平朝申著『終戦後の沖縄文化行政史』にアーニーパイル国際劇場の記述が載っているが、『アンヤタサ!』の著者・山里将人氏の証言によると、この映画館が開館した日の記述については川平氏の“記憶”で書かれてあるために間違いがいくつか見られるとのこと。

1949年

小禄劇場

Naha_OrokuGekijo(60?)net.jpg小禄劇場:1960年7〜8月頃 写真提供/山里将人☆開館:1949年1月1日(土)
☆改装(有蓋):1952年7月27日(日)
☆別称?『小禄オリオン座』:1952〜1954年頃
☆改称『小禄国映館』←『小禄劇場』:1959年以前
★閉館:不明
◎場所:那覇市高良(当時・小禄村)LinkIconMAP
◎経営主:平良雄一


戦後、土地の約7割を米軍基地として取られた旧・小禄村の住民が、仮設のテント住宅を設けて密集していた高良地区に、芝居と映画の兼用劇場として開館。
当初は露天の劇場で、現・小禄南公民館側にあった山の斜面を利用し、残りの3つの側面を囲って営業していたそうである。
'52年7月27日に「乙姫劇団」を迎えて新築落成興行を行っていることから、その日に有蓋の劇場になったと思われる。

『琉球新報』の'53年正月号に掲載された映画館の広告に、琉映貿系列として『小禄劇場』、オリオン興行系列として『小禄オリオン座』の名前があるが、どちらも代表者は平良雄一氏で、『小禄劇場』と『小禄オリオン座』は同一の劇場と思われる(参照:LinkIcon『小禄オリオン座』の項目)。

'56年頃から国映系の映画館になっており、『琉球新報』'60年正月号に『小禄国映』として広告が掲載。ところが、'60年夏頃に撮られたと思われる掲載写真の建物には「小禄劇場」の名前がそのままある。おそらく、この写真が撮られた頃は『小禄国映館』を名乗り始めたばかりでまだ看板を変えてなかったのか、もしくは劇場名が契約している配給ルートによって頻繁に変わる時代であったために看板をそのままにしていたか、はたまたこの劇場では映画上映以外にも芝居や地元のイベントに使用されていたので(小学校の学芸会に使用された資料もある)総称として『小禄劇場』としていたのか…いろいろ考えられる。
いずれにせよ、'63年の名刺交換会のデータを基に作成された『琉球人名年鑑 1964年版』には、<小禄国映>として記載されているので、正式名称を『小禄国映館』へ変えたのは確実だろう。

港劇場(みなと劇場)

☆開館:1949年初頭?
☆改称『ペリー劇場』?←『港劇場』:1954年3月〜1957年5月
◎場所:旧みなと村?(現那覇市山下町?)
◎経営主:不明


『うるま新報』(1948年12月20日号)に「みなと村に劇場」という見出しで「知事の許可を得たので近く開演の豫定(ママ)である」と掲載されている。このことから、'49年初頭には「みなと村」に劇場が開館したと思われる。

「みなと村」とは、那覇港で荷役作業を行うために招集された那覇港湾作業隊を住まわせる場所として、暫定的('47年5月~'50年7月)に設置された特別自治区である。その区域は現在の那覇市山下町、壺川、楚辺、泉崎、楚辺、松尾辺りに及んだそうだが、国場川を挟んで北側にあった現那覇市内の映画館は、沖縄の映画興行史に詳しい山里将人氏が全て調べられており、その一帯に『港劇場』がなかったことは判明している。
このことから消去法で現在の山下町にあったと考えられるが、現在のところ、山下町にあったとされている映画館は『ペリー劇場』の1館のみ。『ペリー劇場』は不明な点が多く、'56年以前の資料が見あたらないことから、上記の『うるま新報』に載った記事の劇場は『ペリー劇場』、もしくはその前身であったと推測できる。

ただし、以上の推測は「みなと村に誕生した劇場」=「港劇場」と仮定した場合にのみ可能である。
戦後間もない頃の映画館は、劇場名に地名を入れるのが殆どで、劇場名に地名が入ってない場合は新聞の表記で、「○○の〜」「○○・〜」といった具合で劇場名の前に地域名を入れるのが常識であった。
ややこしいのは「港」という言葉が一般的なために、地名から来ているのか、地理的状況から来ているのか分からない。

劇団「新生座」(座長・金城幸盛)の第一回巡回公演のスケジュールの '51年4月2日〜10日にこの劇場での公演が含まれており(うるま新報 '51年2月15日)、'53年3月には『ひめゆりの塔』の上映も行われているようだ(琉球新報 '53年1月23日)。
「琉球新報」'54年3月13日号の琉映貿の広告にチェーン館として名前が載ったのを最後に、名前が登場しない。

那覇劇場

☆開館:不明
☆新装開館:1949年10月6日(木)
★閉館:1970年
◎場所:那覇市開南(旧住所:那覇市6区16組)LinkIconMAP
◎経営主:仲本清智


'49年の旧暦の8月15日(10月6日)に新装開館した広告が新聞に掲載されているが、時代的に考えて元々露天の劇場だったところにテント屋根を設置したと思われる。
芝居専門の劇場であるが、映画興行も行っていた時期があり、'50年の1月には『白雪先生と子供たち』『透明人間現わる』などを上映している。
また、'50年10月1日からしばらくは昼間に世界ニュースと文化映画を毎日上映していた。