「沖縄映興伝」取材コラム
ヌギバイ魂
「ヌギバイ」とはウチナーグチで「無賃入場」のこと。
沖縄の年配の方々に昔の映画館について伺うと、彼らの多くが、
子供の頃にヌギバイしたことを嬉しそうに、ときには自慢げに語る。
貧乏人が当たり前の戦後復興の時代は、子供はなおさら金がない。
それでもどうにかして、この“娯楽の殿堂”で映画を見たかったのである…。
当時の彼らの映画に対するその貪欲ぶりに肖って、
僕は戦後の沖縄の映画館を調査し続けている。
「シネマラボ 突貫小僧」元代表 當間早志
COLUMN TAB ▶
コラム・タイトルのタブをクリックしてご覧下さい。
※ブラウザのJavaScriptが有効の場合。
コラム1:『沖縄映興伝』の始まり
コラム1:『沖縄映興伝』の始まり
當間早志
戦後の沖縄の映画館に関する調査活動は、沖縄の映画興行史に詳しい山里将人先生が『アンヤタサ!』の執筆中にその資料整理を手伝った際、先生から教授された興行史の知識が出発点となっている。
しばらくして山里先生から「あとは若いキミらに託す!」と言われ、資料や写真を大量に戴いた。 山里将人先生
僕らはこれらを元にさらなる調査・取材を続けているわけである。
記述資料の調査の基本は当時の新聞。字誌、名鑑、地図、ネットも調べる。
他の書籍も調べたりするのだが、都合のイイ本をなかなか見つけることができない。映画というモノが単なる娯楽として世間から軽視されていたせいか、研究者が少なく、資料が乏しいのである。沖縄の映画興行史についてきちんと書かれてある書籍は、結局、『アンヤタサ!』だけなのである。
山里先生の本が信用できるのは、若い頃から映画中毒(ご本人の弁)で、映画に関することは自らの手帳に細かくメモるクセがあり、そのデータを基に本を書かれている点だ。しかも医者の息子という裕福な家庭で育ったこともあり、映画を頻繁に見ることができたという好条件もある。また先生のポリシーが「記憶は消えるけど、記録は残る」で、客観性を重んじている。
例えば、沖縄民政府の文化部に勤めていたある偉い方の某回顧録のように、うろ覚えで書かれたために間違った情報が載っている書籍もある。当時の新聞も誤字が多く、映画館の正式名称も定まってなかったりするので、これまた、完全な資料とは言いがたい。
当時の映画館関係者らに直接会って取材することもあるが、手元に資料を残していない場合が多く、彼らの証言も記憶で語られるので、資料と照らし合わせると矛盾が生じたり、充分に予習している自分たちの方が、当事者よりもよく知っていたりする。
こういった情報の真偽を見極めることが非常に難しい。ジュンク堂書店・那覇店で開催した「突貫映画本100」のトークライブより('10年9月)
僕は山里先生のように沖縄戦後復興まっただ中の頃の映画興行を直接体験しているわけではないので(復帰の数年前には生まれていたけど、まだ世の中を知らない)、様々な資料と証言を基に“合理的推論”で判断するしかない。そのために、沖縄近代史の勉強もしなければならない。
そんな大変な作業だが、自分たちがまとめたデータが重要な資料として後世に残っていくことを希望し、その使命感を抱きながらやっている。
けど、例えば大学の教授や研究所の職員のようにこういった調査を生業にはしてないので、思いっきり時間やお金をかけられないところがツライところである。
2010年1月25日
このページのトップへ
コラム2:気分は考古学者か探偵か
コラム2:気分は考古学者か探偵か
當間早志
映画館を調べる上で、一番重要で信憑性の高い手がかりが写真である。
写真には劇場名、大きさ、場所、時代、宣伝のセンスなど、いろいろな情報が詰まっている。
資料的な価値も高いが、建物のフォルムが独特な物が多いので、それを楽しむ価値もある。
劇場の名称・場所・時代などを探る作業は結構は面白い。
チェックする観点のポイントは基本的に大きく分けて4つ。「劇場名」「映画のポスター」「隣接する建物」「人物の服装」である。
○劇場名
昔は劇場名を建物の面に掲げてない映画館がわりと多いが、写真を提供して下さった山里将人先生がすでに調べ上げているものばかりなので、多くの写真がどこの劇場であるかは分かっている。ただし、あらためて調べてみると別の映画館の写真であったのが判明したこともあるし、写真にチェックされた劇場名と撮られた当時の劇場名が違っていた場合もある(同じ場所でも劇場名を変える映画館は非常に多い)。名称が変わるということは、配給ルートが変わったとか、改築したとか、場所が微妙に移転したとか、何らかの大きなキッカケと繋がるので、結構重要だ。
○上映映画の看板、ポスター
撮られた時期を知るにはこれが一番だ。写っている看板やポスターの作品名さえ分かれば、'52年までの沖縄で封切られた作品は、山里先生が個人的に全作品を手帳に記してあるのでそれを基に調べることができる。新聞に上映情報や広告が載っている場合もよくあるので(地方館は少ないが)、それも参考にする。また、東京で公開された映画は東京で初公開された時期がネットでデータベース化されているので、それもチェックする。調べている内に、東京公開と沖縄公開の誤差もほぼ推測できるようになるから、東京初公開日の情報はすごく役に立つ。写真に「本日封切り」とか「本日限り」など、日付関係の告知が書かれた紙が貼っていれば、日にちも特定できる。
ちょいと面倒なのは、作品名がハッキリと読み取れない時。これはポスターに写っているおぼろげな絵から推測するという方法で判明する場合がある。
例えば右の写真。これは糸満にあった「糸満国映(旧・新世界館)」の外観だが、そこに写っている立看のポスター部分を、画質が荒れないレベルまで最大限に拡大してみると、下の写真のようになる(画像をクリックしたら拡大表示します)。
写真を拡大しても絵柄も文字もボヤけたまんまで、パッと見では、何の映画のポスターなのか、分かりづらいと思う。
ところが僕は、長年の映画活動のお陰で昔の映画のポスターを見慣れているお陰か、立看の上の方のポスターのデザインをしばらく見ていると、邦画の群像劇のコメディのような雰囲気を感じとることができた。
そしたらそのポスターに一番大きく印刷されている人物の顔が、何となくサザエさんを演じてた時の江利チエミに見えてきたのだ。そうなってくると今度は、ポスター上部のぼやけた文字が「サザエさんの」と読みとれた。
ここまできたら、シネマラボ突貫小僧所蔵の書籍やネットのデータベースで即検索。
江利チエミのサザエさんシリーズは10本ぐらいあったが、写真に写っているおぼろげな文字数から『サザエさんの赤ちゃん誕生』ではないかということが推測できた。
今度は、このタイトルをネットで画像検索したらそのポスター画像が載ったサイト↓がいくつかヒット。
HP:NO HOLDS BARRED
HP:J・KOYAMA LAND番外地
HP:江利チエミと共に
見比べてみると同じ図柄であることが判明。この映画館の写真が撮られた日が『サザエさんの赤ちゃん誕生』を上映している時期であることが分かったのだ。
この作品の東京初公開が '60年2月28日なので、沖縄の地方館で上映された時期はその後半年以内ぐらいだと推測できる。その時期の沖縄の新聞を調べたらさらに細かい日付が分かってくるかもしれないが、時間がなくてまだ調べてない。この時期の映画興行は2〜3日でプログラムを入れ替える場合が多いので、調べるのに手間取るし、地方館は載らない日もあるので、これまた必ず見つかるとも限らない(これとは別の映画館の写真では、新聞で上映日を発見でき、写真が撮られた日を誤差数日レベルの高確率で分かったことがある)。
ちなみにこの映画館の写真には、さらに重要な物が写っている。「糸満国映」という看板が写っているのだ。入口のアーチ部分を拡大するとそれがハッキリと読み取れた。
この劇場に映写技師として務めていた方や経営主の遺族に取材したことがあるのだが、この劇場名は「新世界館」であり、「糸満国映」と名乗っていた記憶がないし、聞いたこともないとの証言があった。
ところがこの写真が示す通り、「新世界館」が「糸満国映」と名乗っていた時期があったことが分かったのである。
○隣接する建物
隣接する建物で、場所や映画館名が分かった写真もある。その建物に地名を使った看板があった場合だ。
例えば、「ゴヤオリオン」の写真。これは所有していた山里先生も不明としていた写真だが、隣の「十字屋食堂」という看板からヒントを得て、県内の「○○十字路」として有名な場所を探って調べていったら「ゴヤオリオン」であると判明できた写真である。
○写っている人の服装
写真に人物が写っていたらその服装を見ていると、寒い時期なのか暑い時期なのか分かる。これも時期の判定に役立つ。上に掲載した「糸満国映」の写真でも、半袖の制服を着た少年が写っている。
面白いのが、劇場前で晴れ着姿の人物が写っている写真がわりと多いことである。
正月興行で賑わった映画館の写真を記念に撮りたくなった気持ちは想像に難くない。70代以上の年配の方々に聞くと、その写真が通常の正月の時期なのか、旧正の時期なのか、特定の時期が判明する場合もある。
上記の4点以外にも、プリント具合(大きさや色落ち具合、裏地)がヒントになったり、開館記念やイベントの記念撮影でご丁寧に場所と日付が入っていたことで簡単に判明した場合もある。
そんな中で面白い観点を発見した。「車」である。
山里先生から戴いた映画館の写真にはアメ車がちょくちょく写っている。
昔の沖縄はアメ車だらけだったから最初はさほど気にしてなかったが、よく見てみると同じ車種(2台)が写っているのが結構あったのだ。ナンバーも同じだと確認できる写真も多い。
思えば自分も、ロケハンやドライブに出かけて風景ショットを撮る時はなんとなく自分の車も入れ込んで写してしまう。
きっと、これらの映画館の写真を撮った人も自分の車を入れたくなっちゃったんだろう。
また、昔はカメラが貴重品でフィルムによる撮影なので、今どきの携帯やデジカメのようにいつでも気楽に撮れるわけではない。これらの映画館を撮った時期も、新聞広告に載せるとか、資料作りの目的などで、短期間に集中して撮ったモノと思われる。
つまり、同じ車が写っている写真同士を見比べたら、自ずと撮られた時期が推測できるのだ。
試しに同じ車が写り込んでいるもので、時期が分かっている映画館の写真同士を見比べてみると、誤差数日レベルで同じ時期に撮られていることが分かった。
こうして新たな事実を発見する度に、写真による映画館の捜索作業に悦びを感じる。
みなさんの家にもひょっとしたら、映画館が写っている写真が存在している可能性がある。見つけたら是非、「シネマラボ突貫小僧」宛てに連絡してほしい。
<筆者が2008年2月25日に書いたブログを加筆修正>
コラム3:千歳館と万世館の謎
當間早志
戦後から'60年頃までに誕生した映画館は、移転や改称が多い上に、正式名称と地元での呼び名が違うなど、正しいデータを見極めるのが厳しい。
特に八重山はまさしく“八重山ひじるー”のごとく映画館に対する愛情も薄いのか、戦後の沖縄では比較的早めに劇場が誕生した地域であるにも関わらず、書籍やネットを調べても映画館に関する記述があまり出てこないし、矛盾する資料も多い。さらに困ったことに、劇場名が似た映画館がいくつかあるため、情報の混乱に拍車を掛ける。戦後の八重山に誕生した映画館の代表格である
『千歳館』
と
『万世館』
が、未だハッキリしない点が多いから困ったものだ。
以下の文章は、劇場名や年月データが入り乱れて非常に分かりづらい文章だと思う。
突っ込んで内容を理解したい方は一字一句、細かく読んでほしいが、それ以外の方もざっくり読むだけで、その“複雑さ”を実感できると思う。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
『千歳館』
(経営主・山城興常)は1947年7月14日に開館したことは分かっているが、その後の経緯が複雑で解明できてない。
「琉球新報」の '52年7月25日号に掲載された沖映チェーン館の広告には
『千歳館』
が
『八重山沖映館』
へ改称したことになっており、「琉球新報」'53年正月号にも
『八重山沖映館』
の劇場名が広告に掲載されている。
ところが、“八重山沖映館” という名の映画館は、この「旧・千歳館」とは別に'60年にも誕生している(※注↓・参照)。
'53年の4月に
『千歳館』
と同じ山城氏が経営する
『万世館』
が開館するが、山城氏が'55年11月21日に自ら経営する劇場2館の営業許可を行政に申請した「興行場営業許可証」には、
『千歳館』
と
『八重山沖映万世館』
の2つの劇場名が表記されている。また、その前の'53年9月3日に石垣地区警察署長宛に申請された
『千歳館』
名義の「映写室使用許可証」もある。
つまり、
『八重山沖映館』
が元の名称の
『千歳館』
になり、
『万世館』
が
『八重山沖映万世館』
に改称したと考えられる。
ところが、「沖縄商工年鑑 1953年版」と「沖縄商工会年鑑 1954年版」には、山城氏が経営する
『八重山沖映館』
の名前が掲載されているものの、両誌には
『千歳館』
も
『万世館』
も名前がない。山城氏がこれら2館以外に映画館を経営していたという情報はないので、この時期の「沖縄商工年鑑」に掲載された
『八重山沖映館』
は、
『千歳館』
か
『万世館』
かのいずれかであるはずだが、どちらの劇場を指しているのか分からない。
実は
『千歳館』
と
『万世館』
の両方に「八重山沖映」という冠が付いていた…ということも考えられなくもないが、その想定を決定づける資料や証言もない。
'53年5月〜'55年10月までの間に、山城氏が経営した映画館は、
『千歳館』→『八重山沖映館』→『千歳館』
『万世館』→『八重山沖映万世館』
という流れで変遷したと考えるのが妥当なのか…。
『千歳館』
と
『万世館』
の名称変遷問題はとりあえず置いといて、それら2館とは別の
“八重山沖映館”
が存在した話に移ろう
(※注)
。
山里将人氏が入手した'60年秋頃の物と思われる映画広告(『はったり!二挺拳銃』)の切り抜きがあり、そこには <琉えい館は〜本日より館名を八重山「沖映本館」と改めます> と書かれている。つまり、'60年に『●●琉映館』から「八重山沖映」に改称した映画館があったことが分かる。●●の部分は「八重山」であろう。
「八重山琉映」といえば、'52年12月25日に
『八重山琉映国際館』
(経営主・石垣長泰)が開館しているが、それとは別に
『八重山琉映館』
が'58年6月13日に開館している(参照:HP「八重山 近・現代史 略年表」)。
『八重山琉映国際館』
は、'57年頃までは「琉映」が付いているが、その後からは「琉映」がとれて
『八重山国際館』
に名前を変えているようなので、'60年に『はったり!二挺拳銃』の広告を載せた
『八重山沖映館』
は、'58年6月に開館した
『八重山琉映館』
だと思われる。
さて、ここで同じく「八重山沖映」の名称が入っていた
『八重山沖映万世館』
の話に戻るが、経営主の山城氏が '61年12月10日に申請した「興行場営業許可証」には
『八重山琉映万世館』
と記載されている。「八重山沖映〜」という冠が「八重山琉映〜」に変わっているのだ。
一方、
『千歳館』
は、'57年の11月に
『八重山オリオン座』
へ改名している。
それからしばらく経った「琉球人名年鑑 1964年版」によると、山城氏が経営する映画館は
『八重山オリオン座』
と
『万世館』
となっており、
『八重山琉映万世館』
から「八重山琉映」の冠が外れている。同書には他に、石垣長泰氏が経営する
『八重山沖映館』
と
『国際館』
、石垣喜幸氏の経営する
『丸映館』
が掲載されている。
これで落ち着くのかと思いきや、'68年8月30日に申請された
『千歳館』
の「興行場営業許可証」が存在。つまり、
『八重山オリオン座』
から再び
『千歳館』
へ名称が戻ったのだ。
'68年10月には、
『八重山沖映館』
(経営主・石垣長泰)が
『八重山第一琉映館』
へ改称。
さらに
『千歳館』
の劇場名改称劇は続く。
「沖縄商工名鑑 1970年版」に、山城氏が経営する映画館は
『八重山琉映館』
と
『万世館』
として掲載。
『千歳館』
が今度は
『八重山琉映館』
と改称しているのである。これは前述の '58年6月13日に開館した
『八重山琉映館』
とは別である。もちろん、石垣氏の経営する
『八重山第一琉映館』
とも違う。
その後しばらくの期間は、資料をチェックできてないが、「八重山毎日新聞」の'88年8月8日号に掲載された <「千歳館」ついに撤去> の記事によると、
『千歳館』
が閉館したのは沖縄の本土復帰少し前らしい。ただし、この記事では
『八重山オリオン座』
に改称したことは書かれてあるものの、
『八重山沖映館』
や
『八重山琉映館』
といった名称に改称したことには触れてないので、'70年の段階で
『八重山琉映館』
だったはずの当劇場が最後に
『千歳館』
へ名前を戻した時期も不明で、どうも釈然としない内容である。
「八重山日報」の'90年1年12日号に掲載された <さようなら「万世館」> の記事では、<昭和28年に県内で二番目、八重山で初めて登場した映画館「万世館」> という間違った記述があり(
『万世館』
は県内では二番目ではないし、八重山でも初めてではない)、これまた、混乱の原因を作る。
以上の取材結果から、八重山にあった映画館の中で複雑化させている劇場の変遷をざっくりとまとめると下記の通り。
○
『千歳館』
('47年7月開館)→
『八重山沖映館』
('52年頃)→
『千歳館』
('53年9月以前)
→
『八重山オリオン座』
('57年11月)→
『千歳館』
('68年以前)→
『八重山琉映館』
('70年以前)
→
『千歳館』
('71年頃?)
○
『万世館』
('53年4月開館)→
『八重山沖映万世館』
('53年9月以前)→
『八重山琉映万世館』
('61年12月以前)
→
『万世館』
('63年頃?)
○
『八重山琉映国際館』
('52年12月開館)→
『八重山国際館』
('58年頃)
○
『八重山琉映館』
('58年6月開館)→
『八重山沖映館』
('60年秋頃)→
『八重山第一琉映館』
('68年10月)
以上の結果は、とりあえず矛盾が起こらないように推測した流れであって、自信はない。
…やはり冒頭にも書いた通り、八重山の興行史は代表格の
『千歳館』
と
『万世館』
がこれだけ複雑に変遷しているので、どうもスッキリしない未消化な気分が残る。できることなら直接、島へ渡って関係者に取材したいところだが、如何せん、この『沖縄映興伝』はボランティアでやっているのでそこまでの余裕がない。
八重山の映画興行史に関係ありそうな情報を持っている方は、小さいことでも是非、提供してほしい。
2011年8月8日
このページのトップへ