『沖縄映画興行伝説』 沖縄離島・先島にあった映画館 PAGE:2(’50〜'51)

沖縄離島・先島にあった映画館   PAGE:2(1950年〜1951年)

  ※劇場名の赤色表記は、この年に開館(改称)したことが分かっている映画館
  ※劇場名のオレンジ表記は、開館年が不明だがこの頃にはあったと思われる映画館

1950年

久米島:久映館

☆開館:1950年2月
★閉館:1964年以降
◎場所:久米島町仲泊(当時・具志川村仲泊)
◎経営主:糸数清春


'50年2月に開館した映画館らしいが、不明な点が多い。「琉球人名年鑑 1964年版」(琉球名刺交換会)に劇場名が載っていることから、閉館したのは '64年以降だと思われる。

宮古島:宮古平和館

☆開館:1950年12月23日
☆改称『宮古琉映館』←『宮古平和館』:1957年1月〜5月
◎場所:宮古島市(当時・平良市)
◎経営主:真栄城徳松


'50年12月23日に落成祝賀会を行っている。木造の建物だった。
経営主の真栄城徳松氏は宮古島の名実業家であり(株式会社オークスの創業者)、のちに平良市長にもなっている。

奄美大島:国際館

☆開館:1950年頃
★閉館:1951年12月以前
◎場所:奄美市(当時・名瀬市だるま市場通り永田病院前)


奄美市名瀬入船町のだるま市場通りの永田病院前にあったと言われる劇場。短期間で閉館したらしい。
閉館後の'51年12月、この劇場があった場所に『新生館』が開館している。

※奄美諸島は戦後しばらく米軍統治下にあったが、1953年12月25日に日本復帰している。

1951年

奄美大島:文化会館 ←文化劇場?

☆前身?『文化劇場』
☆改称?『文化会館』←『文化劇場』:1951年以前
◎場所:奄美市


『文化劇場』が改称したのか別の劇場だったのか判明してないが、「全記録 分離期・軍政下時代の奄美復帰運動、文化運動」('03年・間弘志著・南方新社)に掲載されたリストによると、'51年4月28日より土日の無料上映(ニュースや文化映画など)がこの劇場で行われており、この時期以降は『文化劇場』の名が登場しないことから、改称した可能性が高い。

※奄美諸島は戦後しばらく米軍統治下にあったが、1953年12月25日に日本復帰している。

宮古島:菊水館

☆開館:1951年8月?
☆改称『宮古沖映館』←『菊水館』:1952年
◎場所:宮古島市(当時・平良市)
◎経営主:伊波幸夫


『宮古平和館』に次いで宮古に誕生した映画専用の劇場。木造の露天だったらしい。

「平良市史 第一巻 通史編Ⅱ 戦後編」に掲載された宮古島の映画館に関する記述には、<1951年8月から日本映画が正式に輸入されるようになったのを機に、伊波幸夫は菊水館(木造露天)を建て映画興行をはじめた(略)その3年後、伊波幸夫は沖映館(コンクリート)を建設した>とある。

しかし、戦後の沖縄で邦画が正式に輸入が始まったのは '51年2月である(「うるま新報」'51年2月18日号にその記載有り)。
「平良市史〜」の記述はおそらく、《1951年2月から日本映画が正式に輸入されるようになったのを機に、同年8月に伊波幸夫は菊水館を建て〜》と書きたかったのではないだろうか。

また「平良市史〜」の記述には、もう一つ気になる点がある。
'51年の3年後に沖映館を建設した…とあるのでそれが正しいとすると、『宮古沖映館』が誕生したのは '54年になるはずだが、「琉球新報」の'51年7月25日に掲載された沖映チェーンの広告に<宮古沖映(旧・菊水館)>と、その名前がすでに登場している。
さらに「平良市史〜」自身、そこに掲載された年表に<1952年12月5日 宮古沖映館新築落成式催される>とあり、一つの書籍内で矛盾が起こっているのである。

以上の点を鑑みた結果、'51年8月に『菊水館』は建てられ、'52年7月以前に『宮古沖映』に改称、同年12月5日に劇場を新築したと推測した。新たな情報が得られ次第、検討したいと思う。

ちなみに経営主の伊波幸夫氏は、『宮古平和館』(↑ページ上)の真栄城徳松氏と同様、のちに平良市の市長になっている。

奄美大島:新生館 ←国際館

☆前身『国際館』
☆開館:1951年12月25日
★閉館:不明
◎場所:奄美市(当時・名瀬市だるま市場通り永田病院前)
◎経営主:村山家國


『国際館』があった場所に誕生した映画館。経営主の村山家國氏は「南海日日新聞社」の創立者である。
だるま市場通りの「永田病院」前にあったらしいが、その「永田病院」があった場所が不明なため、詳細の場所が分からない。また、いつ頃まで興行を行っていたかも不明である。

※奄美諸島は戦後しばらく米軍統治下にあったが、1953年12月25日に日本復帰している。