※劇場名の赤色表記は、この年に開館(改称)したことが分かっている映画館
※劇場名のオレンジ表記は、開館年が不明だがこの頃にはあったと思われる映画館
1952年
オリオン座:1952年6月頃 写真提供/山里将人☆開館:1952年6月22日 (日)
☆改称『桜坂オリオン座』←『オリオン座』:'50年代
☆改装:1961年5月19日(金)
☆改装・改称『オリオン・シネマ3』←『桜坂オリオン座』
:1982年12月18日
☆改称『桜坂オリオン』←『オリオン・シネマ3』
:1994年1月
★閉館:1997年1月19日
◎場所:那覇市桜坂MAP
◎経営主:伊波嘉光〜國場幸太郎(国映)
現・桜坂にあった劇場。
開館の前年の8月、沖縄に上陸した台風マージによって完成間近の建物が崩壊し、開館が大幅に遅れた。当初は木造の予定だったが、鉄筋コンクリートで建て直して開館。
ちなみに沖縄県公文書館には、台風マージで崩壊した“希望ヶ丘劇場”との説明がある写真が所蔵されているが、これが建設途中で崩壊した『オリオン座』の可能性がある(沖縄県公文書館所蔵の写真)。
開館時期、数件隣にあった芝居専門劇場の『珊瑚座』↓で、当時話題の「アナタハン島事件」を元に作られた『アナタハンの女王蜂』の芝居公演が行われていたが、「アナタハン島事件」は後に数本映画化。
その内の『アナタハン(洋題)SAGA OF ANATAHAN』 (監督:ジョセフ・フォン・スタンバーグ)と『アナタハン島の真相はこれだ』(監督:盛野二郎)の2本は、'54年1月24日(日)〜26日(火)の三日間、「もっとも良い映画ともっとも悪い映画の異色豪華二本立!!」と銘打たれ、この『オリオン座』で公開されている。
'61年4月〜5月に大きく改装を行い、5月19日に『ベン・ハー』(東京公開:'60年4月)の上映で新装オープン。
桜坂オリオン跡:2000年8月17日 撮影/當間早志
'83年の『グランドオリオン劇場』が『シネマ2』を増設する工事に伴い、この劇場も'82年に改装。名称も『シネマ3』に変更するが、'94年に元の愛称の『桜坂オリオン』に戻る。
'97年に閉館した後もしばらく建物は残っていたが、2007年に解体撤去された。
☆開館(映画館として):1952年8月2日(土)
☆改装・改称:1953年12月25日『桜坂琉映館』←『珊瑚座』
◎場所:那覇市桜坂MAP
◎経営主:山城善光、大見謝恒宏
珊瑚座:1953年3月頃(「桜坂」の名称の由来になった桜の木) 写真提供/山里将人現『桜坂劇場』にあった劇場。
当初は、ウチナー芝居の劇団である「ときわ座」と「松劇団」の演劇専門館として、'52年3月28日に開場し、不定期に芝居を公演。6月20日より始まった芝居『アナタハンの女王蜂』が大ヒットし(『オリオン座』↑の解説参照)、2週間の興行新記録を打ち出したと新聞で発表。上演中の「琉球新報」には、芝居の演出・台本を手がけた仲井間元楷氏(『中央劇場』の経営主)の台本が連載されている。
建物の設備が整った7月12日、常設の劇場として正式にこけら落とし興行を行ったが、成績がふるわず、一週間も経たない7月19日に休館。珊瑚座は劇団として巡回公演を行い、その間に劇場は映画上映の設備を準備する。
休館から2週間経った8月2日、具志頭映画社が提供した『遥かなる愛人』(50年11月東京公開・ソ連)の上映で、映画館として再スタート。
「琉球新報」'53年正月号には“洋画専門封切館”として広告を出しているが、右の写真に写った看板を見てみると、邦画も上映していたようである。
'53年に琉映貿の直営館となり、名称も『桜坂琉映館』となる。
この一帯の俗称である「桜坂」という名は、当時の館主であった山城善光氏が、劇場前に桜の木を植えさせたことから由来している。
☆開館:1952年8月31日
☆改装・改称『小禄銀映』←『小禄沖映館』:1955年頃
◎場所:那覇市高良(旧小禄村)MAP
◎経営主:瀬長亀吉、高良重弘、嘉手苅富雄
「乙姫劇団」を迎えて落成式を行った。こけら落としの上映作品は『娘はかく抗議する』('52年松竹 監督:川島雄三)。
☆開館:1952年以前
★閉館:1970年以降(1969年存在確認済み)
◎場所:那覇市安謝MAP
◎経営主:屋宜昌夫〜屋宜世長
琉映貿系とオリオン系の映画館。「琉球新報」'53年正月号に大伸座の芝居公演の告知が掲載されていることから、'52年以前には開館していたことが分かる。
'53年3月、当時、沖縄で大ヒットした『ひめゆりの塔』('53年東映 監督:今井正)の地方興行がこの劇場でも行われた。
また、「琉球新報」'57年4月10日号に掲載されたオリオン興行主催の「第一回オリオンまつり」の広告に、この劇場の名も載っている。
☆『首里劇場』の別称?:1952〜1954年頃
◎場所:那覇市首里
◎経営主:金城田光
「琉球新報」の'53年正月号に掲載されたオリオン興行の広告に、この劇場名が直営館の1つとして記載されており、『首里劇場』の金城田光氏が代表者になっている。ところが、同新聞の別ページに掲載された琉映貿の広告にも、同じく金城田光氏が代表者として『首里劇場』の名がある。
翌年の「琉球新報」の正月号にもオリオン興行のチェーン館として広告が掲載されているが、この年の紙面には琉映貿の広告が見あたらない。
『首里劇場』の現館長である金城政則氏の証言によると、初代館長の田光氏は首里で『首里劇場』しか経営してないということらしいので(国際通りでは『教配ニュース館』という劇場を経営していたそうだ)、オリオン興行のチェーン館として新聞広告へ掲載する際に『首里オリオン座』という別称を用いたと推測できる。
ちなみに那覇市高良にあった『小禄劇場』も、同じ時期に『小禄オリオン座』(↓下の項目参照)という別称を用いていた可能性が高い。
当時は沖映、琉映貿、オリオン興行の沖縄3大配給会社がしのぎを削っていた時代であり、それぞれの系列の地方館は「○○沖映」「○○琉映館」「○○オリオン座」などと、劇場名に各配給会社の名前が入ることが一般的であった。
ところが『首里劇場』や『小禄劇場』は芝居兼用の劇場だったこともあり、配給会社の名称が使われていない。また、この頃は芝居よりも映画に客が入るということで、芝居兼用の劇場が映画専門館に鞍替えすることもあった。
あくまでも推測だが、オリオン興行は、まだどこの系列の直接属してない『首里劇場』や『小禄劇場』のような劇場がのちに映画専門館になることを見越し、正月の新聞に自らの会社の広告を載せる際に、日頃付き合いのある地方館を直営館として名前を載せ、また、それらの劇場名に自らの会社名を入れて既成事実として公に発表することにより、ゆくゆくは正式に自らの傘下に引き入れるつもりだったのではなかろうか。
戦後復興の中、規制が緩いこともあり、『首里劇場』や『小禄劇場』のような地方館の経営者らは、映画を配給してくれる会社のこういった要望に軽い気持ちで了解したと思われる。
☆『小禄劇場』の別称?:1952〜1954年頃
◎場所:那覇市小禄
◎経営主:平良雄一
「琉球新報」'53年正月号のオリオン興行の広告に掲載されていた映画館。経営の代表者として平良雄一氏の名が記されているが、同じく彼が経営する『小禄劇場』も琉映貿の系列館として同じ日付の同紙に広告を掲載。
翌年の「琉球新報」の正月号にもオリオン興行のチェーン館として広告が掲載されているが、それ以降、『小禄オリオン座』の名は資料に登場しない。『小禄劇場』はその後も登場するし、'60年に撮られたと思われる写真も存在。
戦後、小禄一帯に誕生した映画館は、当時を知る方々からの証言で、5カ所あったことが分かっている。経営者の名前や系列、開館した時期など、諸々の条件で『小禄オリオン座』と照らせ合わせて矛盾する劇場を消していくと、『小禄劇場』だけが残る。そうなると『小禄オリオン座』は同一の劇場であると考えるのが妥当である。
おそらく、琉映貿とオリオンの2社の配給会社から映画を提供されていたということで、広告を出す際だけ名称を使い分けていたと思われる。
※参照:『首里オリオン座』(↑上の項目)
1953年
☆前身『沖縄劇場』
☆改称開館『真和志沖映館』←『沖縄劇場』:1953年1月21日
☆改装・改称『栄町沖縄劇場』←『真和志沖映館』:1959年1月20日
◎場所:那覇市栄町MAP
栄町にあった『沖縄劇場』が沖映系列の劇場となり、この劇場名に名称を変更。
あけぼの劇場:1960年1月頃 写真提供/山里将人☆開館:1953年3月
★閉館:1980年代末
◎場所:那覇市三原MAP
◎経営主:又吉松次郎
芝居小屋として開館。のちに芝居兼用の映画館となる。
'57年4月に開催されたオリオン興行主催「第一回オリオンまつり」の「歌のチャンピオン」の地方予選がこの劇場でも行われている。
'66年11月1日〜5日に『執念の毒蛇』(日布合作 監督:吉野二郎)が上映されている(※『文化座』の項目参照)。
桜坂琉映館:1954〜1957年頃 写真提供/山里将人☆前身『珊瑚座』
☆改称開館『桜坂琉映館』:1953年12月25日
☆改装:1957年10月15日
☆改装・改称『桜坂シネコン琉映』:1986年11月28日
★閉館:2005年4月10日
◎場所:那覇市桜坂MAP
◎経営主:大城鎌吉(琉映貿)
'53年に『珊瑚座』の上映作品の配給を琉映貿が行うようになり、同年11月に琉映貿が劇場を買収。館名も『桜坂琉映館』となり、12月25日に『次郎長三国志・第五部 殴込み甲州路』('53年・マキノ正博監督)と『砂漠の鷹』('52年12月東京公開・ユニヴァーサル)で再開館。
'86年11月には、の3つのスクリーン(『スカラ座』『名画座ロキシー』『キリン館』)を持つシネマ・コンプレックス型の劇場に大きく改装した。
桜坂シネコン琉映:2000年4月 撮影/當間早志
「映画サークル 突貫小僧」(現シネマラボ 突貫小僧)は、'88年8月〜'92年9月まで『キネ探シアター』と冠した上映会を、毎週金曜日の夜にこのシネコン内の『名画座ロキシー』で行っていた。
閉館から3ヶ月後の2005年7月1日に『桜坂劇場』が開館する。