『沖縄映画興行伝説』 沖縄南部にあった映画館 PAGE:3('52〜'53)

沖縄南部にあった映画館   PAGE:3(1952年〜1953年)

  ※劇場名の赤色表記は、この年に開館(改称)したことが分かっている映画館
  ※劇場名のオレンジ表記は、開館年が不明だがこの頃にはあったと思われる映画館

1952年

糸満市:南部沖映館 ←楽天地?

☆前身?『楽天地』
☆改称?『南部沖映館』←『楽天地』:1952年7月以前
☆移転?改称?『楽天地』←『南部沖映館』:1954年2月以前
◎場所:糸満市・通称:映画館通り(当時・糸満町)LinkIconMAP
◎経営主:仲宗根政幸


「琉球新報」創立7周年にあたる '52年7月25日号に、沖映チェーン館が連名で広告を掲載。その中にこの劇場の名前があり、<旧館名 楽天地>と書かれている。
このことから、『楽天地』が『南部沖映館』に改称したと考えられるが、これに関しては疑問点がいくつかある(その詳細はPAGE2の『楽天地』の項目に記載)。

浦添市:浦添沖映館 ←浦添劇場

UrasoeOkiei(2008_03_15)net.jpg浦添沖映館跡:2008年3月 撮影/當間早志☆前身『浦添劇場』
☆開館:1952年7月〜8月頃
☆移転:不明
★閉館:1964年以降
◎場所:浦添市屋富祖(当時・浦添村)LinkIconMAP
    →<移転>LinkIconMAP
◎経営主:宮城三吉〜宮平次郎


'49年に開館した『浦添劇場』が沖映チェーンの傘下に入り、『浦添沖映館』として開館。『浦添劇場』とは別の場所(現・浦添胃腸科外科医院)にあったそうだ。
「琉球新報」の'52年8月4日号に最新式の映写機を導入して『母山彦』を上映するといった内容の広告が載っているのでこの日に開館した可能性があるが、同紙の'52年7月25日号に掲載された沖映チェーンの広告にこの劇場名が登場している。

しばらくして、開館当初の場所から屋富祖大通り沿いに移転しているが、移転した時期は不明。移転後の建物は現在(2011年11月確認)も残っている。

与那原町:与那原沖映館(與那原沖映館)

☆開館:1952年後期
★閉館:1964年以降
◎場所:与那原町LinkIconMAP
◎経営主:桑江朝幸〜山内久光


「琉球新報」創立7周年にあたる '52年7月25日号に、沖映チェーン館が連名で広告を掲載。その中にこの劇場の名前が載っているが、「建設中」と表記されている。
'52年末には存在を確認できていることから、'52年後期には開館したと分かる。

糸満市:新世界館

Itoman_Shinsekaikan(Fumei)net.jpg新世界館:撮影時期不明 写真提供/山里将人☆開館:1952年末以前
☆改称『糸満国映館』←『新世界館』:1957〜1959年
◎場所:糸満市・糸満ロータリー近く(当時・糸満町)LinkIconMAP
◎経営者:上原重雄


「琉球新報」'53年正月号に掲載された琉映貿チェーンの広告に名前が載っていることから'52年にはすでに開館していることが分かる。
劇場主は 『糸満オリオン座』 も運営していた上原重雄氏。琉映貿系列の劇場であったが、'55年に国映系列の劇場に変わり、しばらくして名称も『糸満国映館』に改称。
Itoman_Shinsekai(56_shogatsu)net.jpg新世界館入口:1956年正月 写真提供/嘉味田朝薫この劇場があった通りは劇場名の名残から「新世界通り」と呼ばれている。

『新世界館』があった場所は建て替えられているが、その建物の裏庭には、映画館の2階外側の手すりの一部が残されている。

下の2枚の写真を提供して下さった嘉味田朝薫氏は、糸満にあったほとんどの映画館を24年もの間、映写技師や支配人として渡り歩いてきたお方。『新世界館』で見習いとして働いたことが、映画興行の世界に入るキッカケだったという。この『新世界館』で約1年働いたあと、映写技師の免許を取得した翌日に『楽天地』など複数の劇場を経営していた仲宗根政幸氏の息子と飲む機会があり、Itoman_Shinsekaikan(55_12_23)net.jpg新世界館:1955年12月23日 写真提供/嘉味田朝薫彼の誘いでそのまま仲宗根氏の経営する映画館へ転職することになったそうだ。

'55年12月23日に撮影された写真で、頭に大きなリボンを付けて写っている女の子は、当時、“舞踊の天才少女・ピン子ちゃん”として沖縄で人気のあった長田一子(写真撮影時8歳頃)。
彼女は本土の芸能界にも進出して『母千草』('54年大映・監督:鈴木重吉)に出演を果たしているが、その後の活躍は不明である。現在もご存命で、海外で暮らしているという情報もあり。
Shinsekaikan(2010_07_24)net.jpg新世界館跡:2010年7月 撮影/當間早志

※取材協力:嘉味田朝薫、上原キコウ


糸満市:南部オリオン座(糸満オリオン座)

Itoman_NanbuOrion(60_07~08)net.jpg南部オリオン座:1960年7〜8月頃 写真提供/山里将人☆開館:1952年末以前
★閉館:不明(1970年以降)
◎場所:糸満市・通称:映画館通り(当時・糸満町)LinkIconMAP
◎経営者:上原重雄〜玉城英光


「琉球新報」の'53年正月号に掲載されたオリオン興行の広告には「糸満オリオン座」として載っているが、正式名称は『南部オリオン座』である。
閉館時期は不明だが、70年度版の糸満のゼンリン地図に載っているので、'70年にはまだ営業していたと思われる。

※取材協力:嘉味田朝薫

1953年

浦添市:浦添琉映館

UrasoeRyuei(56_02_17~19)net.jpg浦添琉映館:1956年2月17〜19日 写真提供/山里将人☆開館:1953年3月〜7月
★閉館:不明(1965年1月存在確認済み)
◎場所:浦添市屋富祖LinkIconMAP
◎経営主:宮城三吉〜屋宜昌夫


「琉球新報」の'53年7月31日に広告が掲載。
同紙の'53年2月26日号に載ったコラム「起ちあがれ琉球」の記事によると、浦添村(当時)には映画常設館が1館と記されている。それは '52年8月に誕生した『浦添沖映館』と思われるので、『浦添琉映館』が開館したのは3月〜7月頃だと推測できる。

浦添市:浦添オリオン座

UrasoeOrion(2008_03_15)01net.jpg浦添オリオン跡:2008年3月15日(大地アトリエだった頃) 撮影/當間早志☆開館:1953年10月
★閉館:1990年7月
◎場所:浦添市屋富祖LinkIconMAP


当時、浦添市の繁華街であった「屋富祖大通り」に開館した映画館。

現在も建物は残っており、数年前まで演劇空間・大地がアトリエとして使用していたが、今は「ヤフソオリオン」という名のレストランになっている。
『普天間琉映館』と同様に、閉館した映画館の建物を現在も有効利用していることが喜ばしい。


UrasoeOrion(2008_03_15)02net.jpg浦添オリオン跡・内部:2008年3月15日 撮影/當間早志