『沖縄映画興行伝説』 那覇市にあった映画館 PAGE:4('54〜'59)

那覇市にあった映画館   PAGE:4(1954年〜1959年)

  ※劇場名の赤色表記は、この年に開館(改称)したことが分かっている映画館
  ※劇場名のオレンジ表記は、開館年が不明だがこの頃にはあったと思われる映画館

1954年〜1955年

小禄琉映館

☆開館:1953〜1954年3月以前
☆改装:1971年10月30日
☆閉館:1983年7月5日
◎場所:那覇市鏡原町LinkIconMAP
◎客席:416席(1階席:286、2階席:130)
◎経営主:平良亀


「琉球新報」の'54年3月13日(土)に掲載された琉映貿の広告にチェーン館として登場しているが、それ以前の資料では現在のところ見あたらない。「琉球新報」の'53年正月号に載った琉映貿の広告のチェーン館に名前がないことから、'53年から'54年3月の間に開館したと思われる。

小禄にあった映画館の中で、最後に閉館した。

琉映本館

Naha_RyueiHonkan(60_07_23)net.jpg琉映本館:1960年7月23日頃 写真提供/山里将人☆開館:1954年6月25日
☆休館(館内改装)
   :1970年7月1日〜8月7日
★閉館:1989年6月18日
◎場所:那覇市安里LinkIconMAP
◎経営主:大城鎌吉〜宜保俊夫


国際通りの北東側端の安里三差路に開館した琉映貿直営の映画館。こけら落としは『七人の侍』('54年東宝・監督:黒澤明)であった。

『大宝館』にあった琉映貿の事務所もこの映画館に移し、'86年に『桜坂シネコン琉映』ができるまで琉映貿のメインの劇場として、東映、東宝(のちに国映系)、新東宝(のちに国映系)、松竹、大映、日活などの封切り作品を数多く上映してきた。

この劇場が閉館する時の '89年6月17日〜18日の2日間に渡って行った『さよなら琉映本館 フィルムマラソン』には、我ら「映画サークル・突貫小僧(現・シネマラボ 突貫小僧)」も企画参加。
子供向けのアニメ作品や、往年のイタリア映画の名作『流されて』、当時としてはマニアックな『スター・ウォーズ 日本語版』、そして大森一樹監督の大傑作『オレンジロード急行』など、バラエティに富んだ18本の作品を一気に上映した。最後の上映作品は、『桜坂シネコン琉映』が閉館した時と同じ『男はつらいよ 寅次郎ハイビスカスの花』

國映館(国映館) ←世界館

Naha_Kokueikan(57_03~04)net.jpg國映館:1957年3〜4月頃 写真提供/山里将人☆前身『世界館』
☆改称・新装開館『國映館』←『世界館』:1955年8月31日
☆増設 『シネマオスカー』:1982年12月
☆改装『国映アカデミー』(2F):1985年7月13日
★閉館:2002年9月20日
◎場所:那覇市松尾LinkIconMAP
◎経営主:國場幸太郎


'54年に松尾の『世界館』の経営権が国場組に譲渡されて、建物を大改築。その翌年、当時最新鋭の映写機や冷房施設を備えた大型の劇場『國映館(国映館)』としてオープンする。

東京の『日比谷映画劇場』を模したドーム型の屋根と曲面の外観が美しく個性的で、長年の間「国際通り」の顔として県民に親しまれた。
Naha_Kokueikan(2000_04)net.jpg國映館:2000年4月 撮影/當間早志
'82年12月、建物の地下にあった「クラブ国映('56年に開店)」を映画館に改装した『シネマオスカー』が開館し、'85年7月には『國映館』の2階席を改造して『国映アカデミー』が誕生。

2002年9月に『タイタニック』の特別上映で閉館した。

2006年に建物は解体。小樽の観光地や横浜の赤レンガ倉庫のように建物を補強してこの映画館を再利用する方法がいろいろあったのではないかと思うと、非常に残念でならない。

国際琉映館 ←アーニーパイル国際劇場

☆前身『アーニーパイル国際劇場』
☆改称『国際琉映館』←『アーニーパイル国際劇場』:1955年12月1日
★閉館:1970年5月8日
◎場所:那覇市牧志(現・『那覇市ぶんかテンブス館』前広場あたり)LinkIconMAP
◎経営主:大城鎌吉(琉映貿)


『アーニーパイル国際劇場』が'55年11月末をもって高良一氏から琉映貿の手に渡り、琉映貿の直営館として『国際琉映館』に名称を変更。
改称開館初日は「琉映貿国際劇場直営記念・披露特別有料試写会」と銘打って『朝霧』('55年東宝・出演:久保明、岡田茉莉子)と『太平洋戦争』(長編記録映画)の上映を行った。

閉館後は跡地に『国際ショッピングセンター』が建つ。ショッピングセンター入口の右側には琉映系の上映作品の宣伝看板が大きく掲げられていた。
その『国際ショッピングセンター』も '00年に閉店。

グランドオリオン映画劇場

Naha_GrandOrion(73_07)01net.jpgグランドオリオン:1973年7月頃 写真提供/山里将人☆開館:1955年12月16日
☆改称『グランドオリオン』←『グランドオリオン映画劇場』
   :時期不明
☆改装増設『シネマ2』:1983年5月20日
★閉館:2002年9月
◎場所:那覇市牧志LinkIconMAP
◎経営主:伊波嘉光〜國場幸太郎(国映)


国場組に買収された松尾の『世界館』が、最新の設備の整った『國映館』(↑上の項目)として華々しくオープンした約3ヶ月後、それに対抗するかのように国際通りの桜坂入口に誕生した大型劇場。
こけら落としは『ピラミッド』('55年12月東京公開・監督:ハワード・ホークス)と『蝶々夫人』('55年6月東京公開・日伊合作・監督:カルミネ・ガローネ)の2本立て。

Naha_GrandOrionCinema1(00_03)02net.jpgグランドオリオンのスクリーン脇にあったスフィンクスの像『ピラミッド』は東京に先駆けての公開で、作品に合わせてスフィンクスのオブジェも2体設置。このスフィンクスは、劇場が閉館するまでの約35年間、スクリーンの両脇に飾られていた。


Naha_GrandOrionCinema1(00_03)01net.jpgグランドオリオン:2階席より'80年代に建物の3階を改造し、『グランドオリオン・シネマ2』が誕生。客席内の左側に男子トイレがある小さな劇場であった。
建物の1〜2階は元の大スクリーンのまま『グランドオリオン・シネマ1』として営業し、2つのスクリーンを持つ複合型の映画館になった。


Naha_GrandOrionCinema2(00_03)net.jpgグランドオリオン2:客席これら2つの劇場はのちに『シネマ1』『シネマ2』という俗称が使われ、次第にそれぞれ『グランドオリオン』『シネマ2』となり、'94年中頃から『グランドオリオン』『グランドオリオン2』として名称が落ち着く。


Naha_GrandOrion(00_03)net.jpgグランドオリオン:2000年3月 撮影/當間早志(上3枚のカラー写真含む)
2002年、那覇市おもろまちに『シネマスQ』がオープンする1ヶ月前の9月、『グランドオリオン』と『グランドオリオン2』は「休館」宣言。

「近日、リニューアルされる」との情報もあったが、それ以降は上映を行っていないので、事実上の閉館となった。

小禄銀映 ←小禄沖映館

Naha_OrokuGinei(60_07~08)net.jpg小禄銀映:1960年夏頃 写真提供/山里将人☆前身『小禄沖映館』:1952年8月31日開館
☆改称:1954年〜1955年12月
★閉館:1980年3月
◎那覇市高良(旧小禄村)LinkIconMAP
◎経営主:瀬長亀吉〜平良幸松


旧小禄村高良にあった『小禄沖映館』から名称を変更。オリオン系や琉映貿系の配給作品を上映するようになったためと思われる。
「琉球新報」'54年正月号には『小禄沖映館』として沖映チェーンの広告に名前が載っており、「琉球新報」'55年12月21日号のコラム「あの町・この街」に『小禄銀映』の名が登場していることから、劇場名を変えたのはその間の時期だと推測できる。

この劇場に足を運んだことのある方の証言によると、2階席は桟敷席になっていて、横に寝そべってもスクリーンを見ることができたそうだ。

'80年3月に閉館。閉館後は「銀映パチンコ」になったが、現在は別の建物になっている。

南映劇場(南映館)

Naha_NaneiGekijo_doelze43(64~65)net.jpg南映劇場:1964〜1965年頃。「Picasaウェブアルバム」のdoelze43さんのアルバムより(※画像をクリックすると掲載ページが開きます)☆開館:1955年12月22日
★閉館:1971年3月1日
◎場所:那覇市牧志(当時の住所・那覇市五区十九組)LinkIconMAP
◎経営主:金城安信〜上江洲清徳


那覇タワー手前の通り沿いに開館。「沖縄初の小劇場」が売りだった。
こけら落としの上映作品は『拳銃稼業』('55年11月東京公開・監督:ハロルド・シュスター)と『バブーナ』('55年7月東京公開・ドキュメンタリー作品)の2作品。
開館初日の12月22日は招待試写会、一般興行は翌日から行っている。

東映と日活の作品を主に上映していた。

『アンヤタサ!』著者の山里将人氏の話によると、劇場入口には「上映時間表」が設置されており、「上映開始時間」と「上映終了時間」が分かるようになっていたそうだ。そのようなサービスを始めたのはこの劇場が最初らしく、評判が良かったそうだ。「Picasa ウェブアルバム」のdoelze43さんのページに『南映劇場』のカラー写真がUPされており、山里氏が語っていた「上映時間表」も写っている。

'71年3月、那覇タワー・パーキングを建設するために閉館。駐車場は後にファッションビル「マキシー」になるが、それも閉店した。

※参考:LinkIcon「那覇まちのたね通信/古写真アーカイブ」の『南映劇場』の看板写真
            LinkIcon「沖縄県公文書館」所蔵の『南映劇場』の看板写真

1956年〜1957年

ニュー沖映

☆開館(増設):1956年3月9日
★閉館:1966年6月21日
◎場所:那覇市牧志LinkIconMAP
◎経営主:宮城嗣吉


『沖映本館』に増設開館。『珠はくだけず』('55年大映・監督:田中重雄)『「少年宮本武蔵」より晴姿稚児の剣法』('56年松竹京都・出演:中村賀津雄)

『沖映本館』の姉妹館として活躍した。

'62年8月25日にはストリップショーも行われるようになっている。ちなみに、『アーニーパイル国際劇場』では '52年にストリップショーが行われている。

大洋琉映館 ←大洋劇場

☆前身『大洋劇場』:1950年9月6日開館
☆改称『大洋琉映館』←『大洋劇場』:1956年4月1日
★閉館:1970年
◎場所:那覇市神里原LinkIconMAP
◎経営主:大城鎌吉


「神里原通り」にあった『大洋劇場』が『大洋琉映館』に改称。

ペリー劇場 ←港劇場?

Naha_PerryGekijo(08_03_05)net.jpgペリー保育園(ペリー劇場跡):2008年3月 撮影/當間早志☆前身『港劇場』?
☆改称?『ペリー劇場』←『港劇場』:1956年以前
☆改称『ペリー琉映館』←『ペリー劇場』
   :1963〜1965年頃
☆改称『ペリー劇場』←『ペリー琉映館』
   :1966年以前
★閉館:1969年?
◎場所:那覇市山下町LinkIconMAP
◎経営主:賀数清助→賀数政英


那覇市山下町にあった劇場。山下町が戦後暫定的にみなと村ペリー区と呼ばれていた所以で、この劇場名が名付けられた。
経営主の賀数清助氏は芝居専門としてこの劇場を開館させたが、その息子の賀数政英氏が映写技師の免許を取ったことで映画上映もするようになったそうだ。
その後、清助氏はこの劇場をテナント・ビルに改築しようとしたが政英氏の反対にあってその計画を断念している。
真喜志康忠や仲田幸子など、沖縄芝居の一座が巡業でよく訪れ、その合間に日活や大映作品を上映したそうだ。

Naha_PerryGekijo(10_12_04)01net.jpg「ペリー保育園」解体後の工事現場:2010年12月 撮影/平良竜次'63〜'65年の時期だけ『ペリー琉映館』と名乗っていた時期があり、その頃は糸満市の『南部琉映館』と同じプログラムを上映した日がよくあることから、近くにあった『田原沖映』と同様に近所の子供たちを使って定期バスによるフィルム運搬を行っていたと思われる。

閉館の日付は不明だが、2代目経営主の賀数政英氏のご子息である賀数博氏の記憶によると、'69年ではないかのこと(ただし、ゼンリンの地図の'71年版には『ペリー劇場』の記載がある)。


Naha_PerryGekijo(10_12_04)02net.jpg賀数博氏が保管していた『ペリー劇場』の建物の一部 撮影/平良竜次閉館後は政英氏の奥さんが、建物の一部を使って保育園を経営。'73年には建物を改築して保育園(ペリー保育園)とアパートの複合ビルになる。映画館の建物の一部は外壁として残されていた。

2010年年末に現地を訪れた際は建物の老朽化のため、「ペリー保育園」のあったビルの解体工事が行われた直後で、映画館があった敷地内を散策したが、沖縄の地方館にしてはかなり大きな面積を持っていたことが分かった。資料が残ってないので断言はできないが、敷地面積から想像すると400〜500人は入ったと思われる(ちなみに劇場は1階席のみ)。


※HP「うるくニッポン放送」の2011年10月8日の記事に『ペリー劇場』の記憶イラストが掲載されている。

遊園地劇場

☆開館:1956年末以前(1951年の可能性もあり)
★閉館:1960年頃
◎場所:那覇市LinkIconMAP
◎経営主:宮城弘光


那覇高校向かいの城岳公園には、かつて「新世界」という名の遊園地が存在した。その敷地内にあった映画館である。
「琉球新報」'57年正月号に琉球映画興行協会の広告が掲載されており、「南部地区」にこの劇場の名があることから、'56年末にはすでに存在していたと考えられる。

「琉球新報」2009年11月7日に掲載された「新世界」写真展の記事によると、この劇場で『別れの一本杉』('56年・松竹大船)を見たという人の証言が紹介されていたことから、沖映配給の映画を上映する劇場だったと思われる。

劇場の開館時期は不明だが、遊園地の「新世界」は'51年に開園している。
HP「那覇まちのたね通信」の「古写真アーカイブ」に「新世界」と思われる施設が写った写真がUPされている↓
※参考写真:LinkIcon「那覇まちのたね通信/古写真アーカイブ」の掲載写真

教配ニュース館

Naha_KyohaiNewskan(2011_05_12)net.jpg教配ニュース館の看板(首里劇場舞台裏):2011年5月 撮影當間早志☆開館:1956年末以前
★閉館:不明
◎場所:那覇市牧志(大宝館3階)LinkIconMAP
◎経営主:座安久五郎、金城田光


「琉球新報」'57年正月号に琉球映画興行協会の広告が掲載されており、この劇場の名があることから、'56年末にはすでに存在していたと考えられる。

『首里劇場』の現館長・金城政則氏の証言によると、『首里劇場』の初代館長の金城田光氏は国際通りで『ニュース館』という映画館も経営していたらしく、『首里劇場』舞台裏にこの劇場の看板が残っているということで確認したところ(掲載写真)、「琉球新報」'57年正月号に載っていた劇場と同一であることが判明(『首里オリオン座』の項目参照)。

1958年〜1959年

開南琉映館

☆開館:1958年7月19日
★閉館:1986年11月28日
◎場所:那覇市樋川LinkIconMAP
◎経営主:安里成信


現在の那覇市開南の「せせらぎ通り」沿いにあった映画館。琉映貿の第2封切館として開館した。
'65年1月30日(土)には『国際琉映館』とこの劇場が日活系の封切館になり、それまで日活映画の封切館だった『大洋琉映館』は第2封切館になる。


'80年代に入ってから閉館するまで成人映画を中心に上映を行うようになったが、東映や松竹のアニメ作品や角川映画作品などの話題作を上映することもあり、その際は小中高校生の若い客でいっぱいになった。

栄町沖縄劇場 ←真和志沖映館

☆前身『真和志沖映館』
☆改装・改称『栄町沖縄劇場』←『真和志沖映館』:1959年1月20日
☆改装・改称『栄町琉映館』←『栄町沖縄劇場』:1962年5月1日
◎場所:那覇市栄町LinkIconMAP
◎経営主:真栄田義郎


『真和志沖映館』が改装を行い、『栄町沖縄劇場』として新装オープン。

小禄国映館 ←小禄劇場

☆前身『小禄劇場』
☆別称『小禄オリオン座』:1952〜1954年頃
☆改称『小禄国映館』←『小禄劇場』:1957〜1959年頃
☆閉館:不明(1964年7月存在確認済み)
◎那覇市高良LinkIconMAP
◎経営者:平良雄一


『小禄劇場』から改称した映画館。「琉球新報」'60年正月号の映画広告欄にこの名が登場している。
『小禄劇場』は '56年頃から国映系列の映画館になっており、こちらの調べた資料では、この『小禄国映館』が登場する頃から『小禄劇場』の名が見あたらなくなっていることから、『小禄劇場』から改称した映画館と思われる。

「那覇市立高良小学校・幼稚園 創立50周年記念誌」には、『小禄劇場』で '57年2月24日に「創立11周年記念学芸会」が行われた記述が載っているらしいので、『小禄国映館』に改称したとするならば、それ以降だと思われる。

※情報協力:LinkIconHP「うるくニッポン放送」