キネマ探偵団 アナタハン島事件とは…

アナタハン島事件とは…
武富 良實

『グラマ島の誘惑』は、飯沢匡の戯曲「ヤシと女」を映画化した作品だが、その元となった実際の事件があった。当時は大きな話題となったが、現在ではあまり知られていない。
ここでは、俗に「アナタハン島事件」などと呼ばれたその事件について紹介しよう。


Ana_tahan_pamph.jpg太平洋戦争真っ最中の1944年、サイパン島の北に位置するアナタハン島。
この島には70人ほどの現地人を除けば、ヤシの栽培をする農園の男性技師と、比嘉和子という沖縄県出身の女性。その二人の日本人が暮らしていた。
当時、和子は農園技師の部下と結婚していたが、その夫は別の島へ妹を迎えに行ったまま消息不明。和子と農園技師は島にいる二人だけの日本人ということで、次第に恋仲の間柄になっていった。

運良く戦場にならなかったアナタハン島だが、偶然近くを通っていた日本軍の徴用漁船が米軍の攻撃で沈没。兵士を含めた31人の日本人男性がアナタハン島に命からがらたどり着いたのだ。

その結果、島にいる日本人が、農園技師を含め32人の男と、女は和子1人になる。
しばらくは生きることで必死だった彼らだが、生活に余裕が出てくるにつれ、男たちは、島でたった一人の女性・和子を巡る争いをはじめた。
墜落した米軍の爆撃機B29からピストルを見つけ、その争いは殺し合いにまで発展してしまう。

ある意味アナタハン島が戦争に取り残されてしまったことが不幸だったのかもしれない。
相次ぐ謎の事故死や病死、行方不明…次々と男たちが減っていく。
翌1945年に日本の敗戦をもって戦争は終結したが、彼らはそのことも知らず、緊迫した生活が続いた。

終戦から5年近く経った1950年6月、さすがにその生活に疲れ果てた和子は、たまたま近くを航行していた米軍の船に助けを求め救助された。
32人いた男は、最終的に19人になっていた。

kazuko_h.jpg    比嘉和子本人和子は無事に日本に戻ることが出来たが、彼女を待っていたのは世間の好奇の目だった。
謎の多いアナタハン島での彼女らの異常な生活ぶりは、マスメディアからスキャンダラスに扱われ、空前の「アナタハン・ブーム」が起こったのである。
彼女のブロマイドは飛ぶように売れた。しかしそれは「アナタハンの毒婦」「女王蜂」「男を惑わす悪女」「32人の男を相手にハーレムを作った女」として、マイナスの意味での人気だった。
生き残った男たちは島での生活について多くを語らなかったが、和子は報道されていることを否定して真実を伝えようと人前に出た。そのことがさらに「悪女」のイメージを際だたせたのかもしれない。


その後和子は、アナタハン島事件の真相を語る舞台出演を数多くこなし、新大都映画製作のB級映画『アナタハン島の真相はこれだ』('53・監督:盛野二郎)にも出演している。

1953年4月5日の琉球新報に掲載された「転落の女王蜂 〜その後の比嘉和子さん〜」と題された記事では、かなり批判的に和子のことやブームのことを書いている。

<和子はニッコリ笑って記者団と応対する。どうみても安カフェーの女給だ。小肥りの上にチラチラ光る金歯がますます安っぽさをさらけだす>

といった調子だ。
また、ギャラの高さで選んだ劇場で、和子自身が出演した舞台「アナタハン島」の低俗さや、演技力の無さ、酒代を踏み倒したエピソードなどが悪意を持って書かれている。
さらに記事は同郷の人々が被った“被害”についても触れている。

<在京の沖縄出身者は彼女の出現によって相当な被害を被っているというのは「比嘉姓」を名乗る知名士がまず最大の被害者。(中略)次は同郷の女性。御面相がすこしでも彼女に似ていると「やっぱり血はあらそえんねエ、××子さんのあの性的魅力は」とくる。ラジオ放送で彼女のひどくなまりのあるウチナー大和グチを聞いた者は耳をふさぎたい位だったとコボしている。このように沖縄の恥をフレ歩いているような彼女の行動には在京同胞の殆どが同情を感じてない。>

挙げ句の果てに、その記事に掲載されている和子の写真は上半身裸のセミヌード姿のものだ。
記事は「アナタハンブーム」に対して批判的な姿勢をとりながら、この記事自体が「ブーム」と同じように冷静な態度とは言えない書き方になっている。
和子が沖縄県民ということで、彼女に対する風当たりは、特に沖縄では強かったのだろう。その意識が書き手の冷静さを失わせることになってしまったのかもしれない。
現在の目から見てみると、その扱い方は新聞記事と言うより、事件をスキャンダラスに紹介する写真週刊誌を思わせるが、これはおそらく当時のマスメディアや世論も含めた風潮がそういうものであったのだろうし、そんな時代だったのだろう。

ところで『嘆きの天使』('30)や『モロッコ』('30)で有名なハリウッドの巨匠、ジョゼフ・フォン・スタンバーグ監督も「アナタハン島事件」を元にした映画『アナタハン』('53)を製作している。
この作品にスタッフとして参加した円谷英二(特撮)と伊福部昭(音楽)は、のちにあの『ゴジラ』('54)も手がけることになる。また、カメラオペレーターを担当した岡崎宏三は、川島雄三の『グラマ島の誘惑』('59)で撮影を手がけた。

1954年1月24日の琉球新報の広告を見ると、「全琉話題の映画・本日大公開!もっとも良い映画と、もっとも悪い映画の異色豪華二本立て」という宣伝文句で、その『アナタハン』と前述の『アナタハン島の真相はこれだ』が二本立てで上映されている。
もちろん和子本人が主演した『〜真相はこれだ』の方が「最も悪い映画」なのだろう。ここからも沖縄県民の和子に対する感情が分かるのではないだろうか。

そして1958年。和子は沖縄に戻り、再婚。1974年3月、脳腫瘍のために52歳で亡くなっている。
マスコミや世間に利用されるだけ利用され、次第に忘れ去られていった比嘉和子。彼女も戦争の被害者の一人なのではないだろうか。

「アナタハン島事件とは…」 武富 良實

アナタハン島事件とは…

Glamour04_red.jpg 『グラマ島の誘惑』