キネマ探偵団 川島雄三監督 論 PAGE.1

kawashima03_green.jpg   Kawashima Yuzo (1918〜1963)
川島雄三監督 論
平良 竜次

川島雄三。この人ほどエピソードや噂、伝説に彩られた映画監督は珍しい。
そこで本稿では、彼を象徴するさまざまな事象を紐ときつつ、川島雄三という人物が辿った軌跡、そして彼が残した作品中に幻影のように立ち現れる心の内を探ってみたい。


都会への憧れ

川島雄三はシニカルで都会的な映画を得意とした人だ。実際、本人も文学や江戸落語に精通し、モダンでハイカラなスーツを着て撮影に臨んでいた。周囲の人々も少なからず、川島は東京の人間だと思い込んでいた。
だが、実は雪風吹きすさぶ恐山の麓で生を受けた田舎者であり、また因業の血を受け継ぎ、自身も筋肉萎縮の病に終世苦しみ続けるという、前述のイメージとはかけ離れた影の部分を持っていた。

kawashima_family.jpg   右から2番目が雄三(7歳頃)川島雄三は1918年(大正7年)、青森県下北郡(現・むつ市)の裕福な商家の三男として生まれた。素直で頭が良く勉強の良くできた少年だったという。映画も好きで映画雑誌に批評や感想文を送っていた。
ここまでだと楽しい少年時代を過ごしていたように見えるが、一方で彼には暗い側面があった。己の中に流れる“血”である。

一族は近親婚を繰り返していており誰もが何かしらの病を抱えていた。またそれを証明するかのように次々と夭折する家族…。呪われた “血”から逃れようとするかのように、彼は都会への憧憬を強くし、やがて進学をきっかけに上京する。

大学の映画研究会

入学した明治大学では映画研究部に所属。この時代の川島はサークル仲間と映画論議で盛り上がったり、映画批評を精力的に書きまくった。その活動は学外へも広がり、新進気鋭の映画評論家・今村太平が主宰する同人誌『映画集団』や、各有名大学の映画研究会を横断して結成された「日本映画研究会」にも加入。後に監督になる西河克己や小林桂三郎らとも深い交流を持つことになる。

その中でも川島が意図せず周囲に存在を知られるようになったのが映画人を招いての座談会。渋谷実や島津保次郎など当時の名だたる巨匠たちに小難しい議論を吹っ掛け閉口させることがたびたびあったという。卒業後、川島は松竹大船撮影所に入社するのだが、渋谷や島津の助監督となり、現場でこっぴどくこき使われたという。

織田作之助との出会い

太平洋戦争末期、監督デビューすることになった川島は、処女作に大阪在住の無頼派作家・織田作之助の作品を選んだ。さっそく大阪で織田と会いたちまち意気投合。二人で「日本軽佻派」を結成するなど交流を深める。

織田の原作・脚本を得た川島は、憲兵にスパイと間違われたりフィルム不足でかつかつながらも大阪の街を舞台に精力的に撮影。敗戦迫る1944年(昭和19年)、『還ってきた男』を完成させた。
kawashima12.jpg本作は戦意を鼓舞するプロパガンダ映画がほとんどだった当時にあって異例のノンキで洒脱な作品であり、新聞で「戦時下の映画としてはひどく頼りない」とあまり芳しくない批評を受けている。

その後も二人の友情は続くのだが、織田は終戦二年後に結核で死去。川島は後に一人でひっそりと墓を訪ね、織田夫人に「彼が死んでさびしい」と呟いたという。
川島の作品はよく「露悪と含羞(がんしゅう=はにかみ、はじらい)にとむ」と表現される。川島自身の生き方そのものとも言えるこの言葉に、最も共感しうる友、それが織田だったのかもしれない。

迫りくる死

前述の『還ってきた男』で川島は若干26歳で念願の映画監督となった。
召集令状も来たが身体検査で落とされ戦場に行かなくて済んだ。即日帰郷を祝って祝杯をあげているのを父に見つかり、したたか怒られたが、それは夢をかなえたことから来る喜びであったに違いない。
明るい未来が広がるように思われたが、その頃彼の体は病に冒され、歩行に支障を来たすようになってきていた。父にやられたその日、川島は義母にこう打ち明けている。
「お母さん、こう云う病気になったって。…ルーズベルトと同じ病気だから、秀才病だって…」
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川島は周囲にこの病を小児マヒであると公言していたが、その後の調査で筋萎縮性側索硬化症ではなかったかと推測されている。ともかく、その後もゆっくりとだが、この病は確実に彼の体を蝕んでいく。

後年、大学時代の親友が彼と再会したとき、やせ細った身体はもちろん、何よりも学生時代とは真逆の陰鬱な顔つきと性格になっていたことに驚いたと伝えられる。だが、それが結果的に人間への冷徹な視点と絶望を笑い飛ばす川島独特の作風に繋がっていった…と分析する研究者も多い。