『インディ・ジョーンズ クリスタルスカルの王国』 ルーカスとスピルバーグの痛快な生涯現役宣言!!

※注意! 結末が分かる内容が含まれています。

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映画の魅力を教えてくれた二人の作家

この文章は純粋な作品論ではない。『インディ・ジョーンズ クリスタル・スカルの王国』を通して見た作家論である。僕にとってこの二人、ジョージ・ルーカスとスティーブン・スピルバーグは、初めて映画の魅力を教えてくれたかけがえのない監督なのだ。

ルーカス&スピルバーグファンって恥ずかしいこと…?

ルーカスとスピルバーグ。

この偉大な二人の監督の名前を聞くだけで胸がときめいてしまう。

幼い頃、母に連れられて入った映画館で『スター・ウォーズ』(`77)のドッグファイトに圧倒され、『E.T.』(`82)では、汚い大人たちから“友達”である宇宙人を守ろうと奮起する子どもたちに共感。その後も二人の作り続ける作品は欠かさず見続けてきた。

けれど。

思春期を迎え、世の中を斜に構えて見ることを覚えるようになると、表だって彼らの作品を「大好き!」と言うのが、なんだか恥ずかしいような気になってしまった。難しい顔した評論家先生方の「子どもだまし」「空虚な大作主義」というルーカス、スピルバーグ批判にも反対できず、「そうなのかもしれない」と思うようになってしまった。

代わりに、ヌーヴェル・ヴァーグを“発見”し、ジョナス・メカスの日記映画に心ときめき、あまり知られていないカルト映画を訳知り顔で語るようになった。それが大人なのだと思い込んでいたのだ。

でも、それでも、僕の心の中にはいつも二人の作品が大きな位置を占めていた。

三十も過ぎると、そんなめんどくさい屁理屈も消え失せ、子ども返りでもしたかのうように、再びルーカスとスピルバーグの作品を見るようになる。そこには子どもの頃には決して見えていなかった新たな魅力が溢れていた。

ルーカスはいつだって自分を描いていた

ルーカスの作品(プロデュース作も含む)は迫力ある壮大なビジュアルと対比するように、人生のほろ苦さが顔を出す。『アメリカン・グラフィティ』(`73)では、自身の高校時代の思い出を物語として綴りつつ、アメリカの青春だった50年代が終わり、ベトナム戦争の暗い影が迫りつつある状況描写を匂わせた。彼はこの映画でアメリカと自分の年代記を見事にシンクロさせているのだ。

『スター・ウォーズ』シリーズ(`77~`05)も、地球から遠く離れた銀河の戦いという絵空事でありながら、父子の確執、右腕を失うという主人公の大ケガ、ただのハッピーエンドのように見えて、実は次なる問題が孕みつつある状況など、ルーカス自身が辿った人生(進路に対する父の反対、レース狂、大事故、経済的な成功)がところかしこになぞらえられている。

彼の監督作はわずか六作品。それより製作総指揮や自分の会社であるILMの経営などの活動が目立つため、映画ファンの間では、ビジネスマンとして捉えられている向きがあるが、僕は彼の作家としての側面がもっと取り上げられて良いと思っている。彼を知ることは、アメリカを、アメリカ人を知ること。「子どもっぽさ」が「可能性」としてプラス面に把握されるこの国の強さを知る良い材料となるはずだ。

スピルバーグ、落ちこぼれが掴んだ星

そしてスピルバーグ。僕は彼の生い立ちを知るにつれ、尊敬というより、限りない共感と愛おしさを感じてしまい、冷静になれなくなる。

スピルバーグの子ども時代は辛い出来事に満ちている。両親の不仲、病弱、いじめ、勉強の出来ない落ちこぼれ。度重なる引っ越しで友達作りもままならない彼が、映画に耽溺するようになるのは必然のことだったのだろう。

映画を見るということは孤独を癒す行為だ。スクリーンの向こう側で輝くスターや異国での奇想天外な物語は、つまらない日常やイヤな出来事を忘れさせてくれる。ただ、彼はそれだけで終わらなかった。15歳でカメラを持ち、父の戦争体験をモチーフに短編映画を作ったのだ。

文章や絵画、ダンスなど、どんな創作活動も、全ては自分自身を表現することに繋がる。スピルバーグは映画を通して初めて自分を表現し、しかもそれを映画館で上映し評価を得た。初めて自分が認められたという少年期の経験が、彼の現在に繋がる旺盛な創作活動の原動力となったのは言うまでもないだろう。

僕が彼の作品を見ていて感じるのは表現に対しての真摯な姿勢だ。宇宙人もUFOも恐竜もホロコーストも、「これなら売れるだろう」という前に「これをスクリーンに映し出したい」という素直すぎる欲求が垣間見えて、嬉しくなってしまう。スピルバーグにとって映画とは自分の生きた証しを残すための、そして他人と繋がるために無くてはならない切実な手段なのだ。

二人のリラックスぶりが楽しい快作

そんな、映画に自分の人生を重ねてきた二人が19年ぶりにタッグを組んだのが『インディ・ジョーンズ クリスタル・スカルの王国』である。時代設定を前三作の30年代から50年代後半に移した本作は、敵もナチスドイツからソ連軍に変わっているが、これまで培ってきたシリーズの雰囲気を見事に保ち続けている。

それにしても本作の、肩の力の抜け具合は気持ちいいのひと言に尽きる。まるでルーカスとスピルバーグの思い出話を聞くような楽しさに満ちあふれているのだ。

たとえばオープニング。砂漠を駆け抜ける米軍の一団が登場するが、そこに闖入者が現れる。奔放な若者たち四人が乗ったカスタムカーが米軍にレースを仕掛けるのだが、この車、『アメリカン・グラフィティ』で若きハリソン・フォードが乗る1932年型フォード・ロードスターなのである。

他にもニヤリとさせる箇所がてんこ盛り。最初のアクションシーンの舞台となる場所は『未知との遭遇』のモチーフとなった秘密基地エリア51だし、『レイダース 失われたアーク(聖櫃)』(`81)で登場したアークが出てきたり、『~最後の聖戦』(`89)でインディの父親として客演したショーン・コネリーの写真が飾られていたりと、ルーカスとスピルバーグの関わった作品のモチーフが山のように登場する。二人の作品を少しでも見たことがある人であれば、スクリーンから一時も目を離すことができないはずだ。

二人が少年期を過ごした50年代のタイムカプセル

ファンにとってノスタルジーを喚起させるモノが次々と現れるが、すぐに、本作を作ったルーカスとスピルバーグ自身もこのノスタルジーを楽しんでいることが分かるはずだ。二人にとってのノスタルジー、それは少年期を過ごした50年代である。

インディと一緒に旅をすることになる不良少年マットは、革ジャンにハーレーという出で立ちで登場するのだが、これは『乱暴者』(`53)のマーロン・ブランドとまったく同じいでたちである。さらに砂漠の原爆実験場(アトミック・カフェ)、赤狩り、反共運動、米ソのスパイ合戦と、きな臭くも懐かしい50'sの政治・文化・風俗に彩られている。

ルーカス少年とスピルバーグ少年が過ごした50年代アメリカで八面六腑の活躍をするインディ。三人が同じ時代で同じ空気を吸っている、そう考えただけでなんだかワクワクするではないか。

視点が変わった父子関係

以上のように、本作はノスタルジーと活劇が重要なキーワードとなっているのだが、それだけでは終わらない。もう一つ。本作をルーカスとスピルバーグの自伝的な側面を強調しているものがある。それは父子関係である。

前述のマットはインディの息子である。インディはマットの母親マリオン(『~失われたアーク(聖櫃)』のヒロイン)の告白でその事実を知ってしまう。この下りとその後の関係性も面白いが、ふと思ったのがルーカスとスピルバーグ作品に登場する父子関係についてである。

少年期に両親が離婚したスピルバーグにとって、父は大好きだが「自分のそばにはいない」存在。『E.T.』の主人公は母子家庭で、父の残した洋服の匂いを嗅ぎ懐かしむ。一方ルーカスにとって父親は自分の夢に反対し、小さな田舎町に縛り上げようとする存在であり、それは『スター・ウォーズ』シリーズにおけるルークとオウエン叔父さん、アナキンとオビ=ワン・ケノービの関係に表されている。そして『インディ・ジョーンズ』シリーズでは、二人の父子関係がミックスされており、『~最後の聖戦』で登場するインディの父親は愛すべき存在だが、仕事に没頭し息子を顧みてこなかった人物として描かれている。

二人が描いてきた父子関係は、子どもを自分側としてきたが、今回はその逆、父親側から捉え直している。これには訳がある。70年代後半のブレイクから三十年余り。その間に二人とも結婚し、子どもをもうけ、そして離婚するという経験を持ったのだ。

子どもの感性を大切にし、それを作品に仕立て、富と名声を得た二人。だが時は残酷で若かった二人は老いてしまった…。そして現在、ルーカルとスピルバーグは誰でもそうするように、新たな時代を子どもたちの世代にに託さなければならない役目を持っている。本作では、そんな二人の思いを引き受けるかのように、インディは息子マットと共に冒険を続ける。

引退? まだまだ!

では、この映画はルーカスとスピルバーグにとって老いを表明し、舞台を降りるための花道となっているのだろうか? 

答えは否! それはラストのインディの帽子に表現されている。

『インディ・ジョーンズ クリスタル・スカルの王国』は、老いてなおかくしゃくとする偉大なる二人のクリエイター、ルーカルとスピルバーグの現役続行を華々しく表明した作品である。それをリアルタイムで見ることができて嬉しい限り。いつまでも付いて行きまっせ!

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 最近は映画「インディ・ジョーンズ クリスタル・スカルの王国」と「僕の彼女はサイボーグ」をみたよ。 続きを読む

コメント(4)

ザ・パワドリ50 :

しっかし〜
イラスト上手いっすね〜!!

インディージョーンズが「盆栽」に
なぞらえているところが面白いっす!

それぞれの映画へのオマージュが
エッセンスとしてありながら、
次世代へと続いて行くという伏線が
あるとは…

面白そうですな(まだ観てないんで)


この映画評はやはり
4人の娘を持つパパってのも
影響あるんですかね〜?

ナイス!

平良竜次 :

パワドリさま
コメントありがとうございます。
若いときには若いときの表現が、
老いたときにはそれ相応の表現があると思います。

そこに優劣はないですよね。

確かに昨今のスピーディーなアクション映画と比べるとワンテンポ遅れたようなカッティングにノレない人もいるかもしれません。

それでも本作が面白いと言い切れるのは、老人二人(ルーカスとスピルバーグ)の「思い出話」がマニアックで、かつ二人の生き様を表しているところが良いのです。

takako :

イラスト、クスっとツボに来ました。

読む時間がなくてイラストだけ目を通して、読んだ氣になっています。
ノーカントリーはまだ観てないので観てから読もうと思っています。
G監督が、「サイアクにバイオレンス、でも悔しい事に素晴らしい作品」といっていたので気になっています。

平良竜次 :

TAKAKOさんコメントありがとうございます。文章はネタバレありなのでイラストだけ見るのは賢い選択かと(笑)。それにしても映画見てない人はイラストのみ、見た人は文章まで…というのは良い方法ですね。どの立場の方も楽しめるブログにしていけるよう精進します。

『ノー・カントリー』、本当に素晴らしい作品です。
G監督の言うとおり最悪にバイオレントですが、テーマを描くための必然となっています。カナダでは既にDVD出ているはずなので、是非ご覧下さい。
原作小説「血と暴力の国」(原題:No Country For Old Men)も併せて読むと、コーエン兄弟の意図がさらに理解できるとか。自分は今から読むつもり。

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このブログ記事について

このページは、が2008年7月 1日 15:33に書いたブログ記事です。

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